自由あるいは主体について

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)


カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)


 この日記ではあまりやらずにきたのだけど、たまには読書の記録など。
 何日かまえに『経済学・哲学草稿』を読了した。これはずいぶん前にすでにいちど読んではいたし、非常に気になる書物ではあって、ときたまぱらぱらめくったりはしてきた。ゲーテシェークスピアを引用しながら貨幣について論じるくだりなどはなかなかに詩的で気に入っている。また、マルクスの若かりしころの著作のゆえか、あるいは未完成の「草稿」という性質ゆえか、筆の先走りというか不用意ともとれる記述もみうけられるのだけれど、そういうところにかえってひかれる。たとえば、つぎのような一節を読むと、わたしはふだん自身に欠けている活力がみなぎってくるのを感じるのである。

 共産主義的な職工たちが団結するとき、彼らにとってさしあたり目的となるのは、教説、宣伝、等々である。しかし同時に彼らは、それを通じて一つの新しい欲求を、社会的結合の欲求を我がものとする。手段として現われているものがいまや目的となったのである。社会主義的なフランスの労働者たちの集会しているのをみるならば、こうした実践的運動がそのもっとも輝かしい成果において観察できるのである。喫煙、飲酒、食事等々は、そこではもはや結合の手段あるいは結合させる手段としてあるのではない。社会的結合、団結、また社会的結合を目的とする楽しい懇談が、彼らには十分にある。人間の兄弟のような愛は彼らにあっては空文句ではなく、真実であり、そして人間性の気高さが労働によって頑丈になった人々のうちから、われわれにむかって光をはなっている*1


 マルクスは、とくに後期の著作においては、きたるべき共産主義社会のヴィジョンについて語ることを禁欲していたといわれるけれど、この若き日の『草稿』には彼のうちにあったヴィジョンがぽろぽろと顔を出している。うえの引用箇所では、社会主義者の実践、運動のなかに先取りされたものとして、共産主義のヴィジョンが語られている。
 こうして描かれたヴィジョンに照らしてみるとき、現状の労働のきつさ、つらさ、つまらなさが、どんな条件によって生じているものなのか、かなり明らかになるように思う。わたしが手足をうごかしたり声をだしたりすることが、じぶんの外にある力の「手段」でしかなくなっているということ、わたしと他人が「協力」「協働」するということすら、わたしたちの外にある力の「手段」へとおとしめられているということ。うえのマルクスのことばを読むと、そうした労働のありようが、受認するほかない「あたりまえのこと」ではなくて、むしろ「おかしいこと」なのだと認識することができる。そして、こういった認識は、わたしに活力をあたえてくれる。
 むろん、疎外論という枠組みは素朴といえば素朴すぎるし、あやういといえばあやうい。それはようするに、疎外された「人間性」あるいは「人間の本質」を回復しましょうという枠組みの思考だから、「きみの想定している『人間性』とか『本質』とかってなんだね? そのヴィジョンをきみはどこから持ってきたんだい?」ということがつねに問題になる。また、語られる「人間性」や「本質」が強者のイデオロギーにすぎないという場面を、わたしたちはしばしば目にする。
 でも……と、ちかごろわたしは考えている。思想の出発点として疎外論的な発想は欠かせないのではないか。むしろ、「本来的」な「人間性」やら「本質」やらを思考することから逃避する態度こそ、こんにちの主流のイデオロギーをなしており、わたしたちから力をうばい、ニヒリズムにおちいらせているのではないか。
 だから、わたしが考えなければならないのは、疎外論的な枠組みから出発しつつも、そこで想定した「本質」としての「人間性」や「社会性」を、「本質」の想定とはべつのしかたで根拠づけることである。疎外論から出発して、疎外論をのりこえること。
 そんなことをぼんやりと考えながら『草稿』を再読していたのだが、つづけて読みはじめたのがドゥルーズがカントのテクストを註釈した『カントの批判哲学』。これがあまりに以上のようなわたしの関心にシンクロしていて、ワオゥ、とおどろいているところ。まだ、半分くらいしか読んでいないのだけど、この本めちゃくちゃおもしろい。

 空間と時間という条件のもとで現れている諸現象について考察している限りは、自由に似たものを何も見いだすことはできない。諸現象は、厳密に自然的因果性(悟性のカテゴリーとしてのそれ)の法則に従属している。この法則によれば、各々の現象は別の現象の結果であり、この関係は無限に遡る。またそれぞれの原因は、先行する原因に結びついている。反対に、自由は、「ある状態を自ら始める」能力によって定義され、「その状態の因果性は、(自然法則におけるように)自らを時間に従って規定してくる他の原因に属することはない」(カント『純粋理性批判』)。この意味で、自由の概念は、現象を表象することはできない。それはただ、直観には与えられることのない物自体を表象するだけである*2


 わたしたちが、たとえば「科学的な」と言いあらわされるような、いわゆる客観的な因果関係の相において現象の連鎖をみているかぎり、自由など存在する余地はない。わたしのあらゆる行為は、それに先だつ原因によって完全に規定されており、その原因は無限にさかのぼることができる。あるいは「無限」といわずに、さかのぼったさきにあらゆる事物の起源・創造主としての「神」を想定することもできるだろう。いずれにしても、この観点に立つかぎり、わたしの行為はすべてあらかじめ規定されている。
 だから、わたしたちが自由であろうとするならば、「物自体」という概念を「措定」しなければならない。たぶん、カントの「物自体」なる概念は、「わたしたちが(認識ではなく)行為において実践的にかかわる他人や自然」というような意味でとりあえずは理解しておいて、大きな間違いはないと思われる。

 認識は現象にだけ向かうので、認識に固有の関心において、物自体の存在は認識されえないのだが、しかし、感性的現象そのものの根拠になるためにそれは思考されねばならないのであって、認識は物自体の存在をそのようなものとして措定することを強いられる。したがって物自体は、「ヌーメナ」*3として、すなわち、認識の限界を印付け、認識を感性の諸条件のもとに追い返す可想的ないし超感性的な事物として思考されねばならない*4


 ここで重要なのは、「認識すること」と「思考すること」が区別されていること。
 「認識すること」のレベルでは、わたしたちは「物自体の存在」を知りえない。これは、いささか強引な解釈かもしれないが、おそらくこういうことだろう。すなわち、わたしたちはたとえば他人の内面を直接みることはできない。わたしたちが直接みているのは、他人について自分がつくりあげた表象としての「現象」にすぎないのであって、それは「物自体」とは区別されなければならない。
 だから、「物自体」はわれわれの「認識の限界」をこえた事物として、「可想的な」――つまり認識しえないけれども思考すべき対象として――「措定」されなければならない。
 では、「物自体」が「思考されねばならない」とはどういうことか。ここらへんも、あまりにわたし自身の関心にひきつけた強引な読みになるかもしれないが、思いきって言ってしまえばこういうことではないかと思う。すなわち、認識のレベルでは「物自体」としての他人を直接みることはできないとはいっても、行為のレベルにおいて、わたしは他人に実践的に働きかけ、きずつけ、支配し、影響を与えてしまう。こうして好むと好まざるとにかかわらず働きかけてしまう他人を、わたしはたんなる「現象」とみなすことはできない。行為する主体としてのわたしは、他人を「表象」「現象」ではなく、他人そのものとして、あるいは他人が存在するものとして、扱わなければならない。

 われわれは、ただ実践理性だけが、自由の概念を規定し、それに客観的な実在性を与えることを見た。実際、道徳法則が意志の法則である時には、あらゆる原因をそれに先行する原因に結びつける、感性の自然的諸条件から、意志は、完全に独立している。「何ものもこの意志の決定に先行しない」(カント『実践理性批判』)。それゆえに、自由の概念は、理性の〈理念〉として、あらゆる他の〈理念〉にまさる特権を享受している。自由の概念は、実践的に規定されうるのだから、物自体に対して、それがひとつの「事実」であることの意味ないし保証を与え、われわれを可想的世界へと実際に浸透させる唯一の概念(唯一の理性の〈理念〉)である。
 したがって、実践理性は、自由の概念に客観的実在性を与えることによって、まさしくこの概念の対象に対して立法行為を行うように思える。実践理性は、物自体に対して、物自体としての自由な存在に対して、そのような存在のヌーメノン的で可想的な因果性に対して、そのような存在によって形成される超感性的な世界に対して、立法行為を行う*5


 この箇所で重要な点は2つあると思う。第1に、自由とは、自然的な因果関係についての認識からみちびきだされるのではなく、わたしの思考の関心をわたし自身の実践にむけることによって*6、はじめてその意味が与えられる、ということ。第2に、自由の「客観的実在性」とは、所与(あらかじめ与えられたもの)ではなく、わたしの思考をわたし自身の実践にむけることによって実践的・主体的・能動的に「与える」べきものであるということ。
 以上、「わたしの思考を」とか「わたし自身の実践に」とか、「わたしわたし……」とくり返してきたのは、カントは(ドゥルーズによると)「理性」なるものがどこからくるのかという問題にたいして、それはけっして自身の理性以外のところからはやってこないということを一貫して主張している(らしい)からである。カントは、「神から理性が与えられた」という説明もしないし、単純に「経験や感性から理性が形作られる」とも説明しない。

……しかし、理性が実践的関心において立法行為を行う時、理性の立法行為の向かう先は、理性的で自由な諸存在であり、あらゆる感性的条件から独立した、かかる存在の可想的実存である。つまり、理性的存在が、自らの理性によって、自らに対して、ひとつの法則を与えるのである。諸現象に関して起こることとは正反対に、ヌーメノンは、思考にたいし、立法者と臣民の同一性を呈示する。「その人格が道徳的法則に従属している限りでは、なるほど彼に何の崇高性もないが、しかし彼が当の道徳的法則に関して同時に立法的に行為しており、またそれゆえにのみその道徳法則に服しているのであれば、その限り確かに彼に崇高性がある」(カント『人倫の形而上学の基礎付け』)。これこそが、実践理性の場合における「従属」の意味に他ならない。すなわち、同じ存在が臣民であり立法者であり、それゆえに立法者はここで、自らが立法行為を行っている対象である自然の一部を成しているということである。われわれは超感性的自然に属しているのだが、それは立法者たる成員としてである*7


 カント、いかすね。たとえば、「国家の法律が定めているからそれに従え」だとか「卒業式で君が代を歌わせるのは職務命令なんだから教師はそれに従うべき」だとか「みんなで決めたルールなんだからおまえも守れ」だとか「法務大臣が死刑を執行するのは法律上の義務だ」とか言う連中は、ぜんぜん崇高じゃないもんな。高校んときの伊藤っていう生活指導主任の教師は「諸君のなかには校則は破るためにあるなどとうそぶく者がいるが、校則は守るためにあるのだ」というのが口癖だったが、このうえなく愚かしい発言で、いっぺんの崇高さも感じられない。
 しかし、「同じ存在が臣民であり立法者であり」とはどういうことだろうか。それを可能にする条件が、理性の外側にはなく、理性そのものの働きのうちにおいてのみあるのだとすれば、それはどういうことなのだろうか。このあたりの問題については、よくわからない。ドゥルーズさんとカントさんのお話をもうすこし聞いてみなければ。
 さて、マルクス、そして(ドゥルーズの解釈する)カントを読んでいるわけだが、かれらが(おそらく先駆的に)格闘してきた問題というのが、現代においてはみえやすく、あるいは、いっそう深刻な問題としてあらわれているのではないか、という気がする。2人とも、その残したことばから伝わってくるのは、かれらが「みずからの思弁のなかに閉じこめられている」という強烈な自覚をもっているのではないか、という印象である。
 人間の自由ということをおおまじめな顔して語ると、なんかクサイ。そんなふうに思えてしまう。自由だって? なに空想的なこと語っているんだい?
 たしかに、「自然的な因果関係」という考えがわたしたちの思考を覆ってしまっている状況においては、「自由」なんてことを言うのは思弁的で観念的で空想的にみえてしまう。社会学者や心理学者はわたしにむかってあれこれと因果関係を説明してくれる。きみの行為や考え方にはかくかくしかじかの社会的あるいは心理的要因が働いているのであって、つまるところきみは原因にたいする結果なのだ、と。
 そしてわたしは思う。そうか、わたしは結果なのか。マイ・ネーム・イズ・ケッカ。もしもし、こちら結果です、原因さん応答ねがいます。
 反対に、みずからが原因であるかのように思考すること、自由な意志としてみずからの行為を意味づけることは、なにやら思弁的にみえてしまう。
 しかし、むしろ「自然的な因果関係」あるいは「客観的な因果関係」こそ、思弁の結果にほかならないのではないのか。自身の行為、主体から切り離されたものとして、客観的な因果律をみずからの世界観とすること。これが思弁でなくてなんであろう。
 若いころのマルクスは、おそらくおなじことがらを、「自己疎外」という概念で問題化しようとしているように思える。『経済学・哲学草稿』は、ヘーゲル批判をくわだてているところがとりわけ難解だし、書いているマルクス自身がそうとうに手を焼いているようにもみえ、わたしにはよくわからないのだけれど、そこでかれがくりかえし言うのは、ヘーゲル哲学における対立が、思考の内部での対立にすぎないということである。

 哲学者は自分を――したがってそれ自身疎外された人間の抽象的形態であるものを――疎外された世界の尺度としてあてがう。したがって、外化の歴史全体と外在態奪回全体とは、抽象的すなわち絶対的な思惟の産出史にほかならない。したがって、こうした外化とか、外在態の止揚とかの本来の要点となっている疎外とは、即自と対自との対立、意識と自己意識との対立、客観と主観との対立である。すなわち、抽象的思惟と感性的現実性ないし現実的感性との、思想そのものの内部での対立なのである。他のすべての諸対立とその諸対立の運動とは、この唯一の要点である対立の仮象、外殻、公開的な形態にすぎない。そしてこの唯一の要点である対立が、他の世俗的な諸対立に意味を与えているのである*8


 あはは、こりゃ読めねえわ。なに言ってるんだろうね。
 すこし長く引用したけど、まあ冒頭の1文が決定的に重要だと思う。この文は、2段階に分解すると、なんとなく意味がとれるように思う。
 まず、哲学者(ここではヘーゲルを指す)自身が自己を疎外しているというのがひとつ。哲学者は自分自身を思惟する精神と規定することによって、自己疎外される。というのも、ここにおいてかれは、労働する主体――自然に働きかけ、また他の人間とともに世界を創造していく主体――としての自己の存在を疎外し、みずからをたんに「思惟」「精神」の働きとしてのみ規定しているからである。
 第2に、そうした自分自身の疎外されたありようを尺度にして、かれは世界を解釈してしまう、ということ。この2点目については、マルクスはおどろくほどカントと似たことを言っている。

 さて、アリストテレスがすでに語ったことを個々人に語るのは、もちろん容易である。すなわち、君は君の父と君の母とによって産み出された。だから二人の人間の性行為が、したがって人間の類行為が、君において人間を生産したのである。そうすると、人間はまた肉体的にもその現存を人間に負うていることが、君にはわかるだろう*9


 ここでマルクスが言っているのは、人間が人間を生産するのだということ。言いかえると、生産する、あるいは創造する主体は、「神」でもなく、人間から切り離されて理解されたものとしての「因果関係」でもなく、人間以外にありえないのだということ。
 で、直後に、マルクスはこれに対する反論を想定しながら、つぎのように議論をすすめていく。

ところで君は、たんにこの一側面にだけ、すなわち君がさらにだれが私の父を産み、だれが父の祖父を産んだのか、などと問いつづけていくような無限の進行にだけ注目してはならない。君はまた、あの進行のなかで感覚的に見てとることができる循環運動をも、すなわちそれにしたがえば人間が生殖において自己自身を反復するところの、したがって人間がつねに主体としてふみとどまるところの循環運動をも、しっかりつかまなければならない*10


 ね、ね、ね。ほら、さっきカント(というかドゥルーズ)が言っていたこととおんなじでしょ。
 マルクスが主張するのは、無限に因果関係をさかのぼるような思考だけでは、ダメだということ。そういった思考をいったんやめて、ほかならぬ人間自身が人間を作り出しているその場面をしっかり見なさい。そこを注視する視角をもちうるかぎりにおいて、わたしたち人間は「主体」としてふみとどまることができるのだ。うらがえして言うと、無限に連なる因果関係を外から俯瞰するような視点しかもちえないならば、きみは人間自身がげんにおこなっている行為・実践・世界への働きかけをその視野からとりにがすのであって、きみの主体的な契機はけっしてみえてこないのだ、と。
 マルクスと仮想された反論者の議論はまだつづく。

しかし君はこう答えるだろう、君のいう循環運動は認めるが、それならば、君は私のいう進行を認めるがよい。つまり、だれが最初に人間をまた一般に自然を産み出したのかと私が問うまで、先へ先へと私を駆り立てる進行を認めるがよい、と。私は君にこう答えられるだけだ。君の問いはそれ自身抽象の産物だ、と。どのようにして君はあの問いをするにいたったのか、それを自問してみたまえ。君の問いは一つの見地から、すなわちそれが背理なものであるがゆえに私には答えられない見地から生じていないかどうかを、自問してみたまえ。君が自然と人間との創造について問う場合、君は人間と自然を捨象しているのだ。君はそれを存在しないものとして措定しておきながら、しかもそれらを存在するものとして私が君に証明することを君は要求しているのだ。そこで私は君にこう言おう、君の捨象をやめたまえ、そうすれば、君はまた君の問いもやめるだろう。それとも君が君の捨象に固執しようとするなら、首尾一貫したまえ。そして君は人間と自然とを存在しないものとして考えながら、考えを進めるのなら、君もまたやはり自然であり人間であるのだから、君自身を存在しないもの考えたまえ。考えるなかれ、私に問うなかれ、なぜなら、君が考え、そして問うやいなや、君がしている自然と人間との存在についての捨象は無意味となるからだ。それとも君は、すべてを無として措定し、しかも自分は存在しようとする、そんなエゴイストなのか*11


 原因を無限にさかのぼっていく思考、これはたんなる「抽象の産物」にすぎない。これは、コペルニクス的な認識の転換といえるという気はする。
 ただ、ここはわたしはよく解釈できないところでもあって、この一節を理解するには引用した後半の箇所がかぎになるだろうということだけしか言えない。ここでマルクスが言う人間があるいは自然が「存在する/しない」とはどういう意味なのだろうか。おそらく、かれは「存在」という語を、かれ独自の特殊な意味あいをこめて使っている。
 ここでの「存在」とは、ものごとが私に対して、いわば《たんに客観的な対象としてある》というような一般的に理解されている意味ではないはずだ。では何?

*1:162頁。

*2:65-66頁。

*3:カントにおいて「ヌーメナ」「ヌーメノン」(前者は後者の複数形)とは、「フェノメナ」「フェノメノン」(現象)の対義語として使われているそうです。したがって「物自体」と同義に理解していいよ、と訳註に書いてありました。

*4:66頁。強調はわたくし。

*5:67頁。強調はわたくし。

*6:「実践理性」という語をこんなふうにわたしなりにパラフレーズしてみたんだけど、これまた恣意的にすぎる解釈かもしれない。

*7:69頁。

*8:196頁。

*9:144頁。強調はわたくし。以下、ぜんぶ同じ。

*10:145-146頁。

*11:146頁。