もっとも多感だったころ

 もっとも多感だったころ。というのはわたしの場合、14歳ごろですかね。当時の夢をみた。
 ところで、「多感」ってなんでしょうかね。「感」が「多」とは、いったいなんだろう。わたしはその精確な意味をじつは知らない。
 辞書をひけばわかるのかもしれないけれど、いまはひかない。言葉の意味がわからないときは辞書をめくる、という考えは、ときにひどくナイーブな気がする。だって辞書なんかなくても、ぼくはこうやって「多感」という語をしゃべったり、書いたりしているのだから。
 その意味や用法が「正しい」か「誤っている」か、という問いが頭をかすめることがあるけれど、それってなんか変よね。辞書というものは、わたしたちがしゃべったり書いたりしている語の意味と用法を蒐集して編んだもので、だから本来はわたしたちのほうこそが規範であって辞書がそうなのではない。でも、いつのまにか辞書のほうが規範であるかのようにふるまっており、わたしたちは自分たちの使っていることばの「正/誤」を判断するのに辞書様をあおぐ、というねじれたことを行なっている。
 もっとも多感だった14歳のころの夢。こうやって、「もっとも多感だった」なんて過去をふり返ることがあろうとは、当時の自分には思いもよらなかったことだろう。14歳のぼくには「いまが多感さの頂点にある」などという認識はぜんぜんなかったと思うし、その多感さが「だんだんと減っていく」ものだとも考えていなかったと思う。でも、30代の腹まわりがゆるくなってきた自分も、「多感」の語の精確な意味は知らない。自分の言っていることの意味もよくわかっていないくせに、「あのころはもっとも多感だった」なんてノスタルジーにひたっている。「多感」っていったいなんなのさ。そもそも、「多感さ」をうしなった人間が、10代のおのれの「多感さ」をどうやってはかれるというのだろう。「多感」でなくなった人間がどうしてそれが「多い」とか「少ない」とか言えるのだろうか。
 ひどく奇妙な夢だった。夢はいつだって奇妙なものではあるけれど、だから「奇妙な夢」と「普通の夢」があると考えるのはおかしいのだけれど、今晩の夢は「普通の夢」ではなかった。たいてい、夢のなかでは、現実ではいっしょにいあわせることのありえない人物どうしが場所をともにしていたりする。時間の秩序もめちゃくちゃで、さいきん知りあった人と、もはや音信のない20年前のともだちが同じ場所を共有していたりもする。しかし、今晩みた夢は、14歳の自分に関係のあった人だけが登場し、また14歳の自分が住んでいた街でだけことが起こるのだった。
 それから、その内容を要約できてしまう夢というのも、「普通」ではない。学校の下駄箱(といっても1980年代の学校ではそこに下駄が置かれることはまずなかったのだが)で、ぼくは自分の靴がなくなっていることにきづく。そこでなぜかぼくは、Mくんがまちがってぼくの靴を履いていってしまったのだという確信をいだく。で、ぼくはMくんをたずねるために、他の当時のともだち2人となつかしい街を歩いていく。そんな夢。夢にしては不条理さに欠け、いちおう物語の筋になっている。
 ひどくなつかしかった。そのなつかしく感じる自分は、夢をみている30歳をすぎた自分なのか。それとも夢のなかの14歳の自分なのか。なつかしいという感情は奇妙なもので、それがどこからくるのか、しばしばわからなくなることがある。ふつうに考えれば、はじめて体験することになつかしさを感じるわけはないのだから、それは過去の経験とおなじ経験の現在における《反復》からやってくるように考えられる。しかし、「はじめて体験すること」とはなんだろうか。
 わたしたちの日々の体験はすべて「はじめて体験すること」ではある。けれども、わたしたちは、そうした日々であうできごとをいちいち「はじめて体験すること」と受けとったりはしない。
 わたしが 街を 歩く。I walk in the street*1.
 この「歩く」という経験は、どんな時制で言うべきなのだろうか。いまちょうど歩いているところなのであれば、現在進行形で言いあらわすべきだろうか。'street' の前にくるのは定冠詞だろうか、それとも不定冠詞だろうか。ぼくがいま歩いている街は、先週に歩いた街でもある。いっぽう、「ぼくがいま歩いている街」は「先週に歩いた街」とは、陽のさしかたも異なれば、行き交う人も聞こえてくる音楽も木々のようすもちがう、とも言える。
 「歩く」ということについても、おなじようなことが言える。まったくおんなじ歩き方で歩くことなんてないのだから、わたしの経験する「歩く」はいつだって「はじめて体験すること」ではある。けれども、きのう「歩いた」のとおなじ「歩く」をいまくりかえして「歩いている」のだと理解しながら、わたしは歩く。
 つまり、わたしたちははじめて体験する未知のことを、すでに体験した既知のことであるかのように、認識において変換しながら、日々暮らしている。そして、この認識における変換がスムーズにいかなくなる瞬間、すなわちわたしの行為が過去の「くり返し」ではなく、まさに「はじめて体験すること」であるという相がはからずもあらわになる瞬間、わたしは「なつかしい」と感じるのではないだろうか。なつかしさの感情は、過去の経験を《反復すること》によってではなく、反対に、過去の経験が《反復されえないこと》がみえてしまうということからくるのではなかろうか。いまのいままで過去の《反復》にみえていたことがじつは新規の体験にほかならないという、せつなくもおそろしくもあるような面が露出する瞬間。自分の目のまえにある風景が、過去にも何度となくくり返しみてきた風景に似ていながらも、そこからなにか決定的に断絶してしまっているという感覚。
 学校からMくんが最上階に住むマンションまでの道のりは、それこそ何百回とくり返し歩いたよく見知った道であったはずだ。でも、夢がわたしに見せてくれる路面の色合いや、「キューピーコーワゴールド」の看板、野球場のナイター用のライトは、既知のものとはちがっていた。けっきょく、夢のなかでMくんに会うことはできなかったが、Mくんのお母さんはすっかり老けこんでいた。ぼくの知らなかった、しわが深くきざまれた彼女の顔に、ぼくはおどろくと同時になんともなつかしかった。

*1:この英語、「正しい」んだろうか?