司法こそが無法者

 じつは北朝鮮というのは、地上の楽園とも称すべきすばらしいところなのではないだろうか。なんてことを、ときどき妄想する。
 金正日というのは、西側の当局とメディアが結託して作りだした虚像であって、じつのところあの国に独裁者なんかいない。平和でものが豊かで、働かなくたって肩身のせまい思いをせずにすむ。食べ物はおいしいし、軍隊が存在しないのでいばりくさった軍人もいない。人間関係は平等で、おたがいに言いたいことを自由に言いあえる。
 もちろん、こんなのは妄想だろう。でも、もしかりに、北朝鮮が真に自由な共産主義社会なのだとしたら、西側の諸政府やブルジョア新聞・ブルジョアテレビどもは、その事実をわたしたちに隠そうとするだろう。いわく、あれは自由のない独裁国家なのだ。いわく、国民はひどい窮乏状態に置かれているのだ、と。
 「日本は民主主義国家だから……」「合州国のすばらしさは自由にものを言えることであって……」うんぬん。こういった発言にわたしはときどきイラッとくる。かれらは理念と現実をとりちがえているのだ。現実をみたら、「民主主義国家」など、この地上のどこにも存在しないのは明らかだし、「自由に言えること」と「自由に言えないこと」があるのは子どもだって知っていることだ。自由も民主主義もめざすべき理念なのであって、現実としてのそれはまだ存在していないのだ。
 だから、「日本が(現実として)民主主義国家だ」などと強弁しようとする者は、「北朝鮮」や「中国」のイメージを引きあいに出す必要にせまられる。あれらの強権的独裁国家には自由も民主主義も存在しないのにたいし、わが日本は(相対的に)自由で民主的な国家なのだ、というわけである。ありもしない自由や民主主義を「存在する」と言い張るイデオローグたちが自身の必要にせまられて呼び出す亡霊こそが、「将軍の支配する北朝鮮」であり「言論の自由のない中国」であり、また「身分制に縛られていたかつての封建制」といった物語なのである。
 北朝鮮がパラダイスなのだとしたら、どうだろうか。あそこが貧しく自由のない国なのだというのが、西側体制による情報統制と情報操作の結果もたらされたデマだということがかりに判明したりすることがあったなら、「日本は自由だ」などと言っているやつらはどんな顔をするだろうか。みてみたい。ああ、ぜひみてみたい。


ビラ配り有罪確定へ 被告ら「民主主義の危機」(asahi.com)

 ビラを配っただけで「有罪」となった市民団体のメンバー3人は、最高裁の結論に憤った。75日間も勾留(こうりゅう)されたうえ、4年にわたった裁判の結末に「民主主義の危機だ」と訴えた。
 判決要旨の法廷での読み上げはわずか2分だった。閉廷後に会見した「立川自衛隊監視テント村」の大洞俊之被告(50)は「こんなことのために聞きに来たのか」と憤った。高田幸美被告(34)は「今まで当たり前だったビラ配りがある日突然、犯罪になる。そのことにゴーサインを出した。司法には失望した」。大西章寛被告(34)は「警察や政府が政治的意見を封じるために判決を利用することを恐れる」と語った。
 3人は今も、ビラの配布を続ける。集合住宅や一軒家で年に4、5回。多いときは1回で約2万枚を配る。「再逮捕されては元も子もない」ので、自衛隊官舎には近づかない。管理人のいるマンションの場合は、許可を受けるようにしているが、これまで断られたことはない。


 まったくひどい話だ。ただビラをまいただけで、2ヶ月以上も拉致・監禁*1されたうえ、犯罪者に仕立てあげられるのである。侵略戦争およびそれへの加担を批判するビラをまいた人たちを「住居侵入罪」でパクる、というのもブラック・ジョークみたい。「侵入」してんのはどっちだよ。
 まず、言論の自由などない、という現状認識から始めよう。「司法には失望した」というところからスタートしようではないか。「民主主義の危機」なのではなく、「民主主義」など現実としては最初から存在していなかったのであって、それは「目指すべきもの」であると考えるところから出発するしかないのではないか。

 「テント村」は昨年、事件の舞台となった官舎に70通のアンケートを郵送した。返信は2通。いずれもビラ配りについて「犯罪だと思わない」。自衛官から、活動を支援したいとカンパもあった。「主義主張には全く賛同できないが、これは言論弾圧だ。放置すれば我々も対象になる」と右翼団体からも激励のメールが届いた。


 このパラグラフには、ひっかかるところがないではない。アンケートで訊くべきことは「ビラ配りについて」「犯罪」かどうか、ということなのだろうか。だって、日本国家の司法が「犯罪」としたのは、「ビラ配り」ではなく「住居侵入」でしょ?
 もちろん、「住居侵入」というのは犯罪をでっちあげるための《名目》にすぎないのであって、司法が《真に》標的にしたのは「ビラ配り」という行為なのだ、という見方もできなくはない。そしてこの見方にしたがえば、わたしたちは司法権力にむかって「ビラ配りの自由は認めてください」と《おねがい》するよりほかなくなるのではないだろうか。
 だが、司法権力は言うだろう。「きみたちのビラ配りは自由だ。合法的な範囲でどうぞ勝手にやってくれ。しかし、住居侵入は認めない」と。重要なのは、その「合法的な範囲」とやらは、司法権力によっていくらでも恣意的に、それこそ「自由に」きめられるのだということである。
 つまり、こういうことだ。「ビラ配り」そのものは合法的なのだとしても、わたしたちはビラ配りをする過程でなんらかの法にひっかかってしまうだろう。司法は、おびただしい数のトリビアルな法をいたるところに配置している。住居侵入罪、道路交通法違反、迷惑防止条例違反などなど。官憲はその気になればいくらでも好きなときに罪状などでっちあげられるのである。
 合法的にビラ配りなどできない。だから、司法権力が「おまえの行為は違法だ」と言うなら、こう言いかえそうではないか。
 犯罪なのは知ってるけど、それがなにか問題でも? (´ー`)y-~~
 前々回の日記で引いたカントの言葉を、もう一度引いておこう。

 その人格が道徳的法則に従属している限りでは、なるほど彼に何の崇高性もないが、しかし彼が当の道徳的法則に関して同時に立法的に行為しており、またそれゆえにのみその道徳法則に服しているのであれば、その限り確かに彼に崇高性がある。


 「有罪」とされた3人にカンパを申し出た自衛官の行動には崇高性がある。彼または彼女の行為は、軍隊という組織の規律に反するだろうし、もしこれが組織にばれたらどんな有形無形の制裁が待っているのか、想像にあまりある。にもかかわらず、カンパをするということの崇高性。
 むろん、結果的に「住居侵入罪」に問われ、また今後もおなじような制裁を受ける可能性も予想しうるにもかかわらず、いまもビラ配りをつづけているという3人も崇高である。
 かれらが崇高なのは、結果的に「『犯罪者』という、いわれのないぬれぎぬを着せられた」からではない。じじつ、かれらは犯罪者なのだ。
 法をおかすかおかさないか、合法的かそうではないか。そんなくだらないことよりも高位の道徳法則にのっとってかれらが行動しているということこそが崇高なのである。
 だから、わたしなりのささやかな支援の意思表明として――そうなるかどうかわからないけれど――「腐れ裁判官どもの書いたあんなクソ判決なんぞ気にしないでください」と言いたいと思う。そして、国家やその法など耳あかほどの権威ももちえない世界、司法によって「犯罪者」に仕立てあげられた3人がなんの窮屈も感じずにすむような世界をつくっていくことが、わたしたちの課題なのだと思う。


追記)
 司法の本質的な恣意性については、以前にも書いたことがある。勢いにまかせて書いたんで(いつものことだけど)論理的に隙だらけですが。
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20070610#p1


 というか、こんなのより、toled さんの以下のエントリがとても参考になります。
反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する――はてなとmixiと秋葉原グアンタナモ天国の比較自由論 - (元)登校拒否系

*1:朝日新聞は「勾留」などというあいまいな官憲用語をそのまま使っているが、この批判意識の欠如ぶりがブルジョア新聞のブルジョア新聞たるゆえんである。