デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』

 あたたかくなって、またビールのおいしい季節がやってきました。ありがたいことです。いつ最初の缶のプルトップを開けたのか記憶がさだかでないのですが、まあとにかくおいしくいただいておりますです。
 チャゲ&アスカは「要らないものなど〜ないよね〜」と歌ってましたけど、けっこうあると思うんですよね、要らないもの。
 本来は不要なのに、「必要だ」と私たちは思いこんでいる、というものは多そうです。プロパガンダの結果として私たちがそう「思いこんでいる」ということも、多くありそうです。
 不必要なものをあたかも「必要」であるかのように思いこませるためには、恐怖をあおるのが、たぶんもっとも有効な方法でありましょう。これこれがないと、あぶないよ、ヤバイよ、安全が保たれないよ。あるいは、これこれぐらいしておかないと、持っておかないと、みんなの会話についていけないよ、というのも一見ささやかに見えながら、なかなかの「恐怖」かもしれません。
 いろいろ程度はありますけれど、そういった人の恐怖をあおりたてて金もうけしてる連中はみにくいなあ、と私は思います。セコムとかね。
 やつらはささやくわけですよ。「人間は平等である」というテーゼに照らすならあきらかに分不相応と言うほかない財産をためこんだ金持ちの耳元でね。「あなたの財産をねらっている悪党がいますよ、セコムしてますか?」と。まったく。金持ちなら泥棒に入られろ、っての。
 あと、学校および教育産業もまた人々の恐怖をあおって、あのおっとろしい「必要」を作りだすことで、いばりちらしたり、金をふんだくったりするんです。「勉強しないとあとでこわいめにあうよ、君たち」って言って。こわいのはお前だよ。
 いまや、産業つったら多かれ少なかれそんなのばかりだよなあ。かく言う私だって、人の恐怖をあおり、恐怖にかりたてられた人たちから、金まきあげてめし食ってるんですけどね。
 何十年後、もしかしたら何百年後になるかもしれないけど、そういう恐怖のない世の中を作っていきたいものだと思います。
 さて、毎度おなじような話ばかりくりかえして恐縮でありますが、「ここかしこに恐怖があるぞえ」というプロパガンダによって成り立っておるさいたるものが、政府であります。テポドンやテロリストの脅威をあおることで自衛隊と米軍基地の設置が正当化され、市民の安全をおかす犯罪が喧伝されることで警察がさも「市民の味方」であるかのようなでかい顔をしています。もろもろの学校もしかり、入国管理局もしかりです。
 日本国憲法の前文にはこう書いてあります。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


 このすばらしい理念を達成するためには、すべての政府を廃止しなければならない。そう思いませんか。私はそう思います。
 私はチキン野郎なので、職場では自分が無政府主義者であることを公言しませんが、親しい友達などには「おれ、そもそも政府は要らないと思うんだよね」とか言います。「自衛隊廃止すべき」という意見にはわりと同意してもらうことも多いのですが、「警察も法務省ごと廃止だ!」と言うと、なかなか真に受けてもらえません。私は100パーセント、マジで言ってるんですけど。
 よく「ゴメンですんだら警察いらない」と言う人がいます。その通りだと思います。警察なんかなくたっていいのです。すみませんですむのです。また国境をなくして人々の移動を自由にすれば、軍隊も入国管理局も仕事がなくなるので、廃止できます。仕事のなくなった戦争ごっこ好きの人は、サバイバル・ゲームでもやって遊んで暮らしたらいいし、制服の好きな人はぞんぶんにコスプレでもして楽しんだらいいと思います。
 警察がなくなったら犯罪が野放しになる? 軍隊がなくなったら北朝鮮が攻めてくる? そう言うあなたはマスコミの見すぎです。政府がなくなったら無政府状態になる? まあ、政府がその機能を停止するのをこれすなわち「無政府状態」と言うわけですから、そのとおりですけど、無政府状態もわるくないと思うよ。たぶん。
無政府状態」イコール「危険」というイメージは、政府やこれに追随するマスコミのプロパガンダによるものです。無政府状態は、政府の機能している状態よりずっと安全です。そのことがバレると政府は人民を暴力で支配する口実をうしないます。だから、政府はマスコミや学校教育や御用学者をつうじて、「無政府状態」があぶなくって、法と規律がなくなると社会秩序がたもたれないなどというデマを必死になって吹聴しているのです。
 じっさいのところそんなことはまったくないのです。なぜそんなことが言えるのかって? それは私の経験と人間観察からくる直感です。いずれこれを理論的に証明しなければならないのですが、いまのところは直感としか言いようがないのです。ごめんなさいね。警察はいらないから、ゴメンですませてね。
 以上くだくだと述べてきたのは前置きでありまして、じつは昨日本屋で立ち読みしてたら、私と似たことを考えている人がいるのをたまたま見つけた、感激した、ということを報告したかったのです。


アナーキスト人類学のための断章

アナーキスト人類学のための断章


 アナーキスト人類学! すごいでしょ。でも考えてもみてよ。そもそも人類学なんてアナーキズムの可能性をさぐる以外にどんな使いみちがある? 人類はいかに政府ぬき、国家ぬきでやっていけるか。その可能性を、小規模ながらもじっさいに政府なしにやっていけている共同体、あるいは政府の統治下に入ってしまったがゆえに破壊されつつある共同体の人々からまなぶこと。このほかに人類学の正しい使い方はないんじゃないか。もし人類学が、政府の植民地統治の道具であることを拒絶しようとするのであれば。
 まだ日本語版むけの序文しか読んでないのですが、著者のグレーバーという人は言います。アメリカ人の多くは、国家的権威と警察がなくなれば、混沌が支配し、人々はたがいに殺戮しあうだろうと考えているが、人類学はそうでないことを証明するのだ、と。じっさい、国家のない社会で相互殺戮が起こらない無数の事例を、人類学は提供しているのだ、と。


 重要なのは、単に通念をうち砕くことだけではない。そのことが、われわれはなぜそれに縛られているのか、われわれに問わせる。われわれはなぜ、政府のもとで刑務所や警察とともに生き、あたかもそれらが必要不可欠であるかのように振舞わされているのか? いったいどうして、われわれの社会は、利己主義、怒り、社会的無責任、子供じみた行動を醸成しすぎた挙げ句、自分たちを統御する系統的暴力などなくても、みなが一緒に生きることができるということを忘却してしまったのか?*1


 いったいどうして「われわれ」は「忘却」してしまったのか。そうなのです。「忘却」の問題なのです。われわれは国家や政府がなくとも、ひとりひとりが社会的な存在です。政府の暴力がなくても平和にわたしたちの社会をいとなんでいくことはできる。「われわれ」はみなそのことを知っているはずなのです。そんな自明なことをどうして「忘却」してしまったのか。私にとっても、ここがものを考える出発点です。

 アナーキズムは、ほとんどの政治哲学ときわめて異なっている。他にとっては、自らの社会的展望が望ましいものであることを証明すること、これが重大任務である。社会主義、自由共和制、キリスト教民主主義……、それぞれの主義のもとで生きることが、どの敵対制度のもとで生きることより良いということを証明しようとする。アナーキストにはこの問題はない。ほとんど誰もが、警官やボスのいない非軍事的世界に生きることを望んでいる。そこではコミュニティは民主主義的に自らの問題に対処し、諸個人は基本的必要性が満たされ、自分にとって重要だと決めたことを追求することが許されている。だが他の主義には、そのような世界が可能であるとは信じられない。さらに軍隊や刑務所や富と力の不平等に満ちた世界に利を得ている者たちが、そのような世界が可能だと信じている輩は気違いだと、熱心に説いてまわっている。
 それに対して、アナーキズムが気違いではないと信じる理由があると感じる者はアナーキストになることが多い。私にはアナーキズムが気違いではないと信ずる理由があった*2


 「警官やボスのいない非軍事的世界」「民主主義的に自らの問題に対処し、諸個人は基本的必要性が満たされ、自分にとって重要だと決めたことを追求することが許され」るようなコミュニティが望ましい、ということ。それはグレーバーさんが言うとおり、「ほとんど誰も」が賛成することだと思います。しかし、いまだアナキストになってない人は「でも……」と言うでしょう。いろんな理屈をつけて「でも、それは現実的に不可能だ」と否認しようとするのです。
 世の中には、ふたとおりの人がいます。すでにアナーキストなった人と、これからアナーキストになる人です。言うまでもなく、私もグレーバーさんも前者です。後者のみなさんもおそらく価値の面ではアナーキズムの理想とする社会が「望ましい」ということに同意してくださるでしょう。だから、私たちはそれが「望ましい」だけでなく現実的に「可能だ」ということを証明したいのですが、これはなかなか難しい課題でもあります。いまの時点で言えるのは、私たちアナーキストはそれが可能だという信念を持つことができているということ、その点で私たち無政府主義者はおそらく幸福なのだろう、ということです。
 なぜ私がそのような信念を持つにいたったのか。それについては、わたし自身もまだよくわかっていないのですが、いつか語りたいと思います。
 グレーバーさんは、「アナーキズムが気違いではないと信ずる理由」のひとつとして、つぎのような経験談を語っています。本屋で立ち読みしながらつい吹きだしてしまったくだりです。

……1989年に2年間のフィールド調査のためにマダガスカルに到着した時、私はアリヴニマム(Arivonimamo)と呼ばれる小さい町に住んだ。そこでは地方政府は、実質的に機能停止し、そのまわりの地方では政府は完全に消失していた。
 驚くべきなのは、私がそのことを理解したのは、そこに住んで6ヶ月もたってからだったことである。誰も自分たちが自立した包領に住んでいるとは、言わなかった。彼らはほとんどいつも政府の不満を述べ立てていて、それがもはや存在していないようには振舞っていなかった。人びとは役場へ行き、公的書類に署名し、木を植える許可を取り、葬式に墓を掘る許可を得……つまり変わらぬ生活を送っていた。私が何かおかしいと思い出したのは、公務員たちが、公的書類の紙を自分たちで買っているのを見た時であった。すでに中央政府は何も送ってこなくなっていたのだ。遂に私は理解した。これらすべてが「見せかけ演技(window-play)」だったのだ。実際には誰も税金を払っていなかった。警察は国道から離れた場所にはもはや現れなかった。町の中心部には警官詰め所があったが、そこで彼らが何をしているのかまったく不明だった*3


 こんなことがありうるなんてあなたは信じられるでしょうか? 私は信じられます。このようなふるまいをする人間たちのイメージが、私の目にはありありと浮かびます。むろん、無政府状態がつねにこういうものだと言いはるつもりはありません。しかし、人々がその権力において平等であり、また富・社会的な資源へのアクセスにおいて公平であるという条件がみたされるなら、私たちはこのマダガスカルの人々のようにふるまうでしょう。それは私自身と私のいままで知りえた人たちへの人間観察から自明なこととして、私には確信できます。これこそが無政府状態です。

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 あと余談ですけど、もしかしたらこういうことを書くとアナキストに改宗する人もひとりぐらい出てくるかもしれないという期待をこめて、つけ足します。アナーキズムはいやな労働をしなくてよい世界をめざします(私見では、じつは「共産主義者」を自称したマルクスもそう考えていたふしがあります)。すてきだと思いません? くだらない仕事なんてしなくていいんだよ。
 グレーバー氏は言います。

 学部生としてスペインのアナーキズムの歴史を勉強していた私は、アナーキストたちと伝統的な社会主義者たちの展望の主な差異が、「国家の拒絶」と同じく「仕事の拒絶」にもかかわっていることに気づいた。労働者の家に生まれて、学問の世界を目指すことに決めたのは、父が、朝9時から夕方5時まで支配されることにならない生き方を見いだすよう強く忠告していた影響があった。それは私にとっても大いに意味をなすことだった。私がことに関心を持ったのは、スペインのような国では――あるいは20世紀初頭においてはヨーロッパ全体で――アナーキスト社会主義者の主要な違いは、社会主義者が労働者のためにより高賃金の獲得を叫んでいたことに対して、アナーキストは労働時間の短縮を求めていたことであった。これは小作農社会について私が新たに学んだ、人類学的知見にも呼応するものだった。非資本主義的な環境に生きるほとんどの人びとは、経済学者が「目標収入(target incomes)」と呼ぶものを目指して働いている。彼らは市場から何が必要か、それがいつ手に入るかわかっているので、ある時点で仕事をやめ、リラックスし、人生を楽しむことができる*4


 アナーキズムとは――私の理解するところでは――「自分がなにを必要とするのか」について、自分自身で判断して決められる、そんな世の中をめざす運動のことをいいます。自分がいくら収入を必要とするのか、それは肉体的に生をいとなむための、あるいは世間的にみて「まともな生活」をおくるための「最低限の必要」からみちびきだされるものであってはなりません。そういった強いられた「必要」ではなく、自分自身が必要だと判断したぶんだけ働いて金を稼げばいい。つまり、必要なければ働かなくてよい。そのためには、資本への従属からわれわれ自身を解き放たなければなりません。
 また、国家・政府も「恐怖」のプロパガンダによって扮飾されたいつわりの「必要」にほかなりません。アナーキストは、これが自分にとって必要でないことを知っています。
 本文のほうもこれから読んでみて、また書きたくなったら書きます。

*1:7-8頁。

*2:2-3頁。

*3:15-16頁

*4:9-10頁。