選挙を拒否しよう!

 前回の記事で序文だけ紹介したグレーバー著『アナーキスト人類学のための断章』。さきほど本文も読み終わりました。いやあ、期待以上にすごかった。大変な作品です。あんまりにおもしろかったので、さっそくまた1章から読み返しているところ。
 近いうちに私なりに咀嚼して再構成・再体系化してみたいと思っているのですが、今日は疲れきっているので、脊髄反射的に心に浮かんだことなどを書き散らします。
 はからずも興奮をおぼえたことのひとつは、この著作によって、革命は《いたるところで》、また《すでに》始まっている、というヴィジョンが得られたということです。アナキストの革命は、かつてのロシア革命がそうだったような、ある日とつぜんに劇的におとずれる、というものではありません。グレーバー氏が私たち読者に開いてくれるヴィジョンは、国家や資本に対抗する力が、あちらこちらですでに立ち上がっているし、またそれは「近代」に固有のものですらなく、国家なき市場なき比較的平等な共同体においてさえも躍動しているというものです。社会理論家たちがこしらえた「近代/前近代」というそれ自体想像的なものにすぎない枠、あるいは「西洋/非西洋」という区分をとっぱらって見れば、アナーキストの運動はすでに/つねに遍在している、ということです。
 にもかかわらず、それが私たちに見えにくくなっている。それはなぜなのか。ということで、アカデミズム・大学制度が徹底的に批判されます。そのあたりの話は、まだ消化しきれていないので、日をあたためてできれば、と思います。
 今日のところは、この著作のわたし自身が食いつきやすい断片を引っぱり出して、妄想を展開してみたいと思います。それは「民主主義」について論じられた部分です。
 われわれは「直接民主主義」と「間接(代議制)民主主義」の関係について、ふつうこんなふうに考えがちです。すなわち、前者は「理想的」ではあるけれど、きわめて特殊な条件――小規模で閉ざされた共同体――のもとでのみ可能である。だから、複雑化しまた巨大化したこんにちの「社会」では、「直接民主主義」の代替として「間接民主制」がとられるのである、と。つまり、ここでは、「間接民主制」は、「理想」には達しえないという意味で《不十分な》民主制として、位置づけられることになります。
 しかし、この前提は、2つの点でうたがってかかるべきではないだろうか。本書を読みながら、そんなことを考えました。
 第1に、直接民主制が現代においては「理想的」ないしは「空想的」なユートピアにすぎない、という前提がはたして正しいのか、という点。グレーバーさんはこの本で、現代においても、直接民主主義的な合意形成の過程が、たとえばアルゼンチンの地域連合で、反WTO・反IMFの組織的行動において、またフェミニスト運動やクエーカー教徒の組織化の原理として実際に機能していること、またその方法がもろもろの小集団をネットワーク化する技術としてもきわめて洗練されつつあることを示唆しています。そういうわけで、「直接民主制は理想的だけれど(現代社会においては)不可能である」という前提は、うたがう余地がおおいにあるかもしれません。
 第2に、間接民主主義は《不十分な》民主主義であるという位置づけについてです。間接民主制とは、投票すなわち多数決を前提とした意志決定のしくみです。そもそも投票は「民主的」と言えるのだろうか。それは、《不十分な》民主制とすら言えないのではないでしょうか。むしろ、投票は《反民主的》《専制的》《暴力的》意志決定と呼ぶべき手続きにほかならないのではないでしょうか。
 グレーバーさんは、人類学がこれまで蓄積してきた事例をしらべてみると、平等主義的な共同体ほど「票決」をさける傾向がある、という事実に注意をうながします。いわゆる「近代的」もしくは「西欧」社会の人々がこのんで「民主主義」のメルクマールとみなしたがる投票・多数決の原理は、平等主義的な共同体では拒絶されている。かれは、「なぜだろうか?」と問います。

 私の説明は以下のとおりである。皆が平等に向かい合うような共同体においては、ほとんどの成員が何をしたいか理解することのほうが、それに同意しない人々を説得する方法を考えるよりもはるかに簡単だからである。「意志合意決定」*1は、大多数が少数をその決定に従属させることがない社会に特殊なものなのである。それがない理由は、強制的力を独占する国家が存在しないか、国家が地域の意志決定にかかわっていないか、である。大多数が決定したことを過ちと考える人びとを、それに無理に従わせることがないならば、(結局は誰かが敗者とみなされる公共的競技としての)票決の必要はないのだ。票決とは最終的に、屈辱、怨恨、憎しみを生み、共同体の内的崩壊を確実にする方法である。(中略)
 多数決民主主義は、次の2つの要因が合体した時に現れる。

  1. 集団の決定において、誰もがみな同等の発言権を持つべきであるという感情、そしてそれに加えて、
  2. それらの決定を強制する力を持つ機構*2


 「共同体の内的崩壊を確実にする方法」にほかならぬ投票・多数決がおこなわれながらも、実際のところ共同体が崩壊していないのだとしたら、それは国家が敗者・少数者を暴力的に抑圧しているからです。
 衆議院選挙、県知事選挙、地方議会選挙などなど。日本中でしょっちゅう投票・多数決がおこなわれているのに、いっこうにニポンが「崩壊」するけはいはありません。選挙後にあってしかるべき暴動が起こりませんし、まだ内戦が始まっていません。
 なぜでしょう。その理由はあきらかです。政府の暴力が、私たち選挙の敗者(小選挙区共産党候補に投票した私たち、都知事選挙外山恒一氏に投票した私たち)を、選挙の勝者である、石原慎太郎やら自民党やら民主党やらに投票した連中に強制的に従わせているからです。選挙制度のあるところには、暴力があるのです。選挙が民主主義だって? 冗談じゃないぜ。
 この日記で、これまで何度か、選挙というものにたいする違和感を書いたことがあったのですが、その違和感をなかなか十分にことばにできずにもどかしい思いをしてきました。でも、その一端は、グレーバー氏のおかげで明らかになったような気がします。
 いままでは、私もつい魔がさして投票所にわざわざ足をはこび、むだな一票、木の葉より軽い一票を投じる、などというとち狂ったことをしたことが何度かありました。わたしが投票した候補が当選したことは一度もありません。いつも私は敗者の屈辱をあじわってきました。しかし、これからは投票には行きません。いやしくも国家・政府を拒否しようとするのであれば、選挙なんかに行ってはなりません。選挙は「無意味」「むだ」どころか、むしろ民主主義の破壊という意味で有害です。私たちの清き一票をいさぎよく棄権して、投票率を下げてやりましょう。
 同時に、選挙・投票・多数決といったことが、だれの目にもナンセンスであほくさい茶番劇にしか映らないようになるために、議会の外で真に民主的な意志決定の方法をあみだし、実践し、みがきあげ、広げていくことが、私たちの課題になるでしょう。
 そうして選挙というイベントの地位が相対的に下がっていったはてに、私たちはいつか、こんなテレビの選挙結果報道を目にすることができるでしょう。「今日おこなわれた東京都知事選挙の開票作業がさきほど終了しました。石原慎太郎候補、34票で当選が決まりました。次点候補に17票もの差をあけたダブルスコアでの圧勝です!」
 つうか、いまオレ発狂してる? 発狂してるかも。寝よう。



YouTube - 外山恒一の「投票率ダウン キャンペーン」2/3

*1:引用者註;全会一致を原則とする直接民主主義的な意志決定のこと。

*2:153-4頁。強調はわたくし。