にんげんは道具じゃないのである
ムシャクシャした気持ちをここにぶつけてみたりする。
ひとに「つかわれる」のもイヤだけど、ひとを「つかう」のはもっとイヤだ。
「つかう」といったってわたしの場合、おおげさなものではないのですけど。「あれするときはこういうふうにしてください、おねがいします」みたいなかんじで、《命令》までいかなくても《指示》と《おねがい》の中間ぐらいのかげんで、仕事上のことでひとにたのんだりすることもあるわけです。
でも、相手だってにんげんで、わたしからしたら他人ですから、わたしのおもうようには動いてくれるわけがないんですね。そりゃそうだ。道具じゃないんだから。
ま、道具だって、なかなかこっちのおもうようにはゆかないよね。ギターだって、ゆっくりつきあって、やっとこ、ときたまおもうように弾けることがあって、そんなときはとーってもうれしい、てゆうものであって、こっちのおもいどおりにならないからってぶっこわしたりはしません、わたしは。
ところが、相手がにんげんだと、イラッときちゃったりするんだな。それで、サイテーなひとことを心のなかでつぶやいてしまう。
「ああ、つかえねえなー」と。
こんなことを心のなかでいうたびに、たぶんわたしのなかで、なにかがこわれてゆくのでしょう。わたしの精神は、一歩一歩、あの経団連とかゆうサークルのおっさんたちにちかづいてゆくのでしょう。
わたしはいま、そういう地位にはいませんし、こんごもそういう地位にのぼりたくはありませんけど、そのうち、あの「人材」ということばをヘーキでつかうようになるのかもしれません。そうなったら、他人が材木かなにかのようにみえてくるのでしょう。この木はくさってて、つかいものにならねーな、とか。
「つかいもの」じゃねーんだよ、そもそも。
ここにかいたら、すこしすっきりしました。ごめんなさい。