「多数派/少数派」という認識を構築するのはなにか?

 ルワンダの大虐殺にかんする興味ぶかい記事を読みました。


メディアで憎悪を増幅してはいけない!:NBonline(日経ビジネス オンライン)(伊東乾さん)


 ただ、この記事、会員登録してログインしないと読めなくなっちゃってるんですね。きのうかおとついまでは、読めたんだけど。
 しかも、会員登録では氏名と住所、職業、年収といった情報まで要求してくる。まあね、こういうのは、各自おこのみの氏名や住所を書いても、うけつけてくれるものなんだけどね(わたしは、こういうとき、アンクル・アキヒトの住所*1を借りたりなんかします)。
 で、ほんとはうえの記事への批判などももりこみつつ、考えたことを書こうというつもりだったのですが、それはやめました。だって、リンク先の記事にとぶのにいちいち会員登録しなきゃいけないなんて、めんどくさいじゃん。
 そういうわけで、予定は変更して、リンク先を参照しなくても文意がつうじるよう、記事への言及・引用を最小限にします。記事にたいする批判的な検討は断念します。かわりに、うえにリンクした記事を検討するのにつかおうとおもっていた、ベネディクト・アンダーソンさんの『比較の亡霊』という本の一節を話題の中心にしたいとおもいます。

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 さて、さいしょにほんのちょっとだけ、冒頭にリンクした伊東乾さんの記事にふれておきます。伊東さんの記事は、重要だとおもわれる論点がけっこうもりだくさんなのですが、わたしがもっとも関心を刺激されたのは、つぎの点です。すなわち、いわゆるツチ族フツ族間の「対立」が、ドイツ、そしてのちにはベルギーによる植民地統治のもとで、いわばつくられたものであるということ。そしてその「対立」において、IDカードへの「フチ・ツチ」の記載がもたらした影響が論じられていることです。
 以下、IDカードにかんするところのみ引用しておきます。

 では「ツチ士族」と「フツ平民」(と、ここでは分かりやすく表記してみたいと思います)の「対立」はどうして生まれたのか? ポイントは「宗主国ベルギーが導入したIDカード」にあります。これは1932年、ちょうどナチス・ドイツが政権を奪取する頃の出来事です。この、作られた「『民族』対立」の背景には、西欧帝国主義国家の「分割して統治せよ」という原則が存在しているのです。

 そんな中、第1次、第2次両世界大戦のちょうど真ん中の時期(1932年)に、ベルギー政府によって国民全員に義務づけられたのが、IDカード上への「フツ・ツチ」の記載でした。以前はフツがツチになることが普通にありましたが、大変不自然な形で「身分」が固定化されたのです。これについても次回にもう少し触れたいと思います*2


 問題にされているのは、こういうことです。
 すなわち、元来「ツチ」や「フツ」とは、「民族」や「部族」というよりも、戦士と農民という職業集団をあらわす名称であったこと。また、そこでは、婚姻等をつうじた職業集団間の移動や交流があったこと。ところが、ヨーロッパ人による統治下において、「ツチ」と「フツ」が、それぞれの人間のいわば本質的な属性をあらわすカテゴリーとして位置づけられていったということ。そのさいに決定的だったのが、「IDカード上への『フツ・ツチ』の記載」であった、と。
 もとの記事をわたしなりの解釈もいれてまとめてしまったので、じゃっかん趣旨をはずしているところもあるかもしれませんが、伊東さんが指摘するのはおおかたそういうことではないかとおもいます。
 「フツ」としてこの世に生をうけたものは、「ツチ」になることはないし、逆に「ツチ」としてうまれたものが「フツ」になることもない。そういう排他的で本質的なアイデンティティとしての「固定化」が、ツチとフツの対立の背景にある、という説明はとても納得できるものです。「あいつらは本質的にわれわれとちがうのだ」「われわれは本質的に○○人で、あいつらは本質的に△△人なのだ」という感覚は、血なまぐさい抗争をひきおこす重大な要因となりうるでしょう。
 ただ、わたしがおもうのは、そういった差異の認識は、2つの集団のあいだの《対立》《反目》をうみはするものの、それが《大虐殺》にまでいたるには、もうひとつべつの条件がみたされていなければならないのではないか、ということです。
 じぶんだったらどうか、ということをわたしは想像するのですけど、いくら相手がにくたらしくても、あるいは相手に対する恐怖にかられていても、それだけでひとを殺せるかといったら、かなりむずかしいような気がします。たしかに、「追いつめられたネズミはネコをもかむ」ということわざのとおり、にっちもさっちもいかなくなってじぶんより強い相手におそいかかるということも考えられます。しかし、「相手よりじぶんのほうがつよい」という確信がもてなければ、なかなか攻撃にはふみきれないんじゃなかろうか。
 一対一のたたかいでもそうなのだとしたら、組織的な暴力においてはなおさらでしょう。かずのうえでの少数派が多数派に暴力をふるうなんてことは、むろん物理的にもむずかしいわけですが、それいぜんに《くわだてる》ことじたい考えにくいことです。「あいつらは本質的にわれわれとちがうのだ」ということにくわえて、「われわれは多数派で、あいつらは少数派だ」という認識があったときに、はじめて《大虐殺》は可能になるのではないでしょうか。
 そう考えたとき、《大虐殺》の背景に、集団間の対立や相互の憎悪・恐怖をみるだけではたりなくて、「多数派/少数派」という認識――これが政治的な構築物にほかならないことは、あとでのべます――を問題にしなければならないとおもいます。以下の記述は、かずのうえでの多数派がフツであり、少数派がツチである、という点を念頭において読まれるべきです。

 内戦が始まると、元来が難民のツチ系RPFの中にもゲリラ化してフツの村を襲う者が出てきます。弾圧など、思い当たることがある大多数のフツ国民はこれに恐怖しました。フツ・パワーの急進派は「復讐に狂ったツチのゴキブリたちが、あなたたちを殺しにやって来る」「殺される前に、ゴキブリを全員抹殺しなければならない」と、マスメディアを総動員して恐怖を掻き立てました。
(中略)
 さて、1994年のルワンダで、追い詰められたフツ・パワー急進派は何をしたのか? 
 虐殺の首謀者たちは中国から大量の鉈「マチューテ」を輸入し、フツの国民に配布するという挙に出たのです。


 少数派ツチのゲリラ活動とこれにたいするマスメディアをつうじたプロパガンダによって、多数派フツの「恐怖」が頂点にたっしていたのだとしても(もちろんそうしてあおられた《感情》の重要性は否定しませんが)、それだけでは「抹殺」などという考えはでてこないでしょう。「抹殺」にとりかかるためには、相手にたいする恐怖や憎悪といった《あつい感情》だけでなく、力関係においてじぶんたちのほうが優位にあるという《つめたい思考》が必要だとおもわれます。フツの指導者がフツの国民にナタを配布したという事実は、きわめて示唆的です。ここには、少数派のツチを「抹殺」するにはフツのひとりひとりにナタをもたせればたりるであろう、というフツ指導者の冷徹な《計算》があったはずです。そこでは、フツのひとびとのあたまかずが、《われわれの力》をあらわすものとしてかぞえられたことでしょう。
 その意味で、ツチによるゲリラ活動とフツによる殺戮行為を、区別せずに「暴力」としてひとくくりにしてしまうことは、さけなければなりません。問題は、「相互殺戮」ではなく、「多数派による少数派の殺戮・抹殺」です。
 ただし、ねんのためにいっておくと、わたしは「ツチとフツのどっちがわるいのか?」なんて話をしようとしているのではありません。わたしが言おうとするのは、一方が「多数派」になり、他方が「少数派」にさせられてしまうということが、ある種の認識上のトリックにほかならないのだということです。
 その点をみごとにあきらかにしているのが、つぎに引用するベネディクト・アンダーソン氏の考察です。独特の用語がいくつかもちいられていることもあって、部分的な引用ではわかりにくいのですが、とりあえずそこは気にしないで読んでみてください。

 統計の論理政治領域の自立という考えは、センサス*3のなかで合体すると、同一の時間の刃をあてて、ひとつひとつの系列を切り取っていった。(中略)しかし同時に、統計と政治がたがいに作用をおよぼしあうことで、〔無限定型系列の〕新聞がなかなか産みだせなかったもの、すなわち、それぞれまとまりをもつものとして対置される〈マジョリティ〉と〈マイノリティ〉を系列として創りだしたのである。これらは当初、〔多数と少数〕という単なる数字上の項目にすぎなかったが、時がたつうちに、政治的実在物としての性格を帯びるにいたった。(ここに、1830年代にアレクシス・ド・トクヴィルが、つまるところセンサスにもとづいたものでしかないマジョリティの専制というものを、熱にうかされるように想像しはじめた、その基盤があるのである。まさにそれは、大西洋をはさんだ両英語国家イギリスとアメリカで統計学学会が結成されようとしていた時代であった。)*4


 なんてゆーか、むずかしいね。やっぱ、よくわかんないや。そんなわけで、意味のわかるところだけ、とびとびに読んでくことにするね。
 〈マジョリティ〉と〈マイノリティ〉が政治的実在物としてみなされるには、3つの条件が関係している。これすなわち、「人口調査」「統計の論理」「政治領域の自立という考え」である。
 ひとつめの「人口調査」というのは、まあわかりますね。国家の役人どもがおせっかいにも、住民の人数をかぞえることね。とうぜん、わたしはいつも拒否してますけど、現代日本でいうところの国勢調査です。
 ふたつめの「統計の論理」については、著者のいってることは、わたしにはまだよくのみこめていません。ま、「人口調査」の基盤となる思考ではあるはずですよね。とりあえず、統計学によって、ただ住民のあたまかずの総計をだすにとどまらず、人種・民族・住所・性別・職業・年齢といった項目ごとの情報を整理し、かけあわせて集計すること(「黒人の30歳代の女性は○○名」とか「埼玉県在住の個人事業主の男性は××名」とか)が技術的に可能になる、ということはいえますわね。
 みっつめの「政治領域の自立という考え」。これはつぎのように理解するとわかりやすいとおもいます。国境線をひくことによって、「少数民族」はつくりだされます*5。たとえば3つの主権国家イラクとイランとトルコが地球上から消えうせれば、もはやクルド人は「少数民族」ではありません。同様に、わたしたちがロシア共和国と日本国をほろぼすことにめでたく成功したとき、アイヌは「少数民族」であることをやめ、ニポン人は「多数派」であることをやめます。「少数民族」というよびかたには、「日本国内の」という修飾語がかくされています。国境線でかこいこんで閉じた「領域」をつくりだすことによって、その領域内の「多数派」と「少数派」という観念が生じてしまうのです。
 ようするに、こういうことです。閉じられた領域を設定することで、国勢調査の役人たちは、その「領域内」の住民を項目ごとに分類し、かぞえあげることができるようになります。国境がなければ、役人どもは、さいしょにどこの土地に行って住民たちをかぞえはじめればよいのか、またどこでかぞえるのをやめたらよいのか、見当もつかないことでしょう。しかも、かれらがかぞえようとする住民たちは、電信柱や樹木とちがって人間ですから、釧路からユジノサハリンスクへ、ユジノサハリンスクからピョンヤンへ、あちこち動きまわったりもします。役人たちは、うろうろ行ったり来たりしながら、ついにはラチがあかんと悟り、かぞえるのをあきらめるでしょう。
 このようして「多数派/少数派」という分割を不可能にしてしまうことが、《多数派による少数派の大虐殺》という悲惨をくりかえさないために、必要だとおもいます。ただ、ざんねんなことに、地球上からすべての政府を消し去り、じゃまくさい国境線をとりはらうには、いますこし時間がかかりそうです。だから、当面の課題として、いかにして「多数派」は「多数派」たることをやめることができるか*6、「多数派/少数派」という観念をどうやってすこしずつでも無力化していくのか、ということを考え、また実践してゆかなければなりません。

*1:「〒100-0001 東京都千代田区千代田1番」です、よろしく!

*2:強調は引用者。

*3:人口調査のこと。

*4:アンダーソン著『比較の亡霊』asin:4861820375 62頁。〔 〕内は訳者による補足。強調は引用者。

*5:経済史家のテッサ・モーリス=スズキさんが、たしかどこかでこう指摘していたとおもうんだけど、出典がみつかりません。

*6:「少数派」が「多数派」になることはかなりむずかしいでしょうが、「多数派」がみずからの「多数派」たるアイデンティティを放棄して「少数派」になることは可能であるようにおもいます。外山恒一さんのあの「少数派の諸君!」というよびかけに、こたえようじゃありませんか。