ふたたび自由について

 前回の記事について、いただいたコメントには きほんてきに おへんじしませんと かきました。しかし、気が かわりましたので、やっぱり かきます。
 ひじょうに きょうみぶかいことに、わたしの文章を誤読した(と あえて いいます) ひとたちの ほとんどが、おなじポイントを みおとしているようです。ですから、全員には おへんじいたしませんが、わたしに たいする もっとも ていねいな反論記事を こちらで えらばせて もらって、わたしのかんがえを あらためて せつめいします。


他者がどこにもいない自由 - 地下生活者の手遊び


 tikani_nemuru_Mさんは、わたしは前回の記事のうち、つぎの ぶぶんを引用しています。太字にしているところは、元記事でも わたしが太字にしたところです。強調の意図を こめました。

 いっぽう、ほんとうに こわいのは、反対に「ひとをころす自由」を否認するような かんがえかたです。かれらは いうでしょう。「われわれは ひとをころす自由を みとめられていない」と。しかし、あなたの「ひとをころす自由」を みとめないのは、《だれ》(あるいは《なに》)ですか。「法律」でしょうか。それとも、「ケーサツ」でしょうか。


 これにたいし、tikani_nemuru_Mさんは いいます。

何をおつむの弱い中二のような理屈をこねとるの?
法には権力の抑圧と支配の装置という側面は確かにありますにゃ。基本のキだよにゃ。
しかし、法には弱者がその庇護を求めているという側面も捨てがたくあるはずなのににゃー。公権力の暴力を背景にはしているけれど、相互安全保障という弱者にとっての現実的で不可欠のツールという側面を無視してはならにゃー。
「ヒトを殺す自由」を認めにゃーのは、権力でも警察でもなく、ロールズのいう「正義」の理念だにゃ。


 「おつむの弱い」と いわれるのは、あたっています。だから、バイクに のるときは、ヘルメットを かぶります。ただし、そうする わけは、道路交通法で さだめられているからでは、ありません。そうしないと あぶないと わたし自身が判断しているからです。
 「中二のような」という いいかたについては、わたしは べつに いいんですけど、tikani_nemuru_Mさんのブログを よむ中学2年生が 気をわるくするんじゃないかなと、おもいます。
 さて、2点 のべます。

1 自由は「みとめる」ものではない

 ひとつは、「『ヒトを殺す自由』を認めにゃーのは……」というところ。わたしは、自由を「みとめる」べきか「みとめない」べきか、という はなしは、いっさい しなかったはずです。そもそも自由とは、だれか(なにか)が みとめたり、みとめなかったりするようなものではない、というのが、わたしの主張です。
 だから、わたしは こう かきました。「[わたしには]ひとをころす自由が あります」と*1。わたしは、法や国家、あるいは社会から自由を「みとめられ」たり「ゆるされ」たり「あたえられ」たりしているから「自由」なのでは ありません。わたしが ひはんしたのは、自由をそのようなものとしてみなす「かんがえ」です。

だから、ほんとうに おそろしいのは、「ひとをころさない自由(=ひとをころす自由)が みとめられていないのだ」と、かんがえてしまうことです。「公務だから、しかたがない」あるいは「わたしは 公務を執行しているに すぎないのだから、ゆるされる」という かんがえこそが、もんだいです*2


 わたしにも、はとやま法務大臣にも、ひとを ころす自由が あります。これは、じじつとして そうだ、とわたしは いっているのです。にもかかわらず、そのじじつが「ない」と「かんがえてしまうこと」。それが もんだいだ、と のべたのです。
 ひとを ころすのは、ピストルやナイフやロープではありません。ベルトコンベアーでも 乱数表でも ありません。死刑制度でも ありませんし、法律でも ありません。《機械が ひとをころす》のではなく、《にんげんの自由な意思が ひとをころしている》のです。
 「公務」のせいにして 暴力をふるうのは やめろ。「公務」のせいにしないと 暴力をふるえないのなら、そんな暴力は さいしょから やめようぜ。そう わたしは おもうのです。
 だから、「法には弱者がその庇護を求めているという側面も捨てがたくあるはずなのに……」というかたちで、法によって自由をみとめたり、制約したりすることの正当性を うんぬんする tikani_nemuru_M さんの ぎろんは、わたしにたいする ひはんとしては、ざんねんながら ずれています。わたしは、みとめたり 制約したりすることの 原理的にできないものとしての自由を かたっているのですから。

2 「ころす自由」とは「ころさない自由」でもある

 では、なぜ tikani_nemuru_M さんを はじめとして、おおくのかたが、うえの ような誤読をしたのでしょうか。
 もちろん、わたしの かきかたが じゅうぶんでなかった、ということも あるでしょう。しかし、あなたがたが どうして わたしの文章の あるぶぶんを、そろって みおとしているのか、気になるのです。
 わたしは、はっきり こう かきました。

でも、「ひとをころす自由が ある」とは、もっと くわしく いえば、「ひとをころすか ころさないかは、わたしの自由である」ということです。つまり、「わたしには、ひとをころす自由と どうじに、ひとをころさない自由が ある」ということ。


 「ひとを ころす自由」は、「ひとを ころさない自由」を ふくんでいます。あるいは、こういったほうが よいでしょうか。「ひとを ころす自由」と「ひとを ころさない自由」とは、おなじことなのだ、と。
 わたしが このようなことを のべた文脈も みてほしいと おもいます。
 いいですか。わたしは 死刑の執行とオマワリによる暴行を非難する文章のなかで、「ひとを ころさない自由」があると、かいたのですよ。
 わたしが さいごに「はとやま法務大臣に自由を!」などと かいたのは、つまりは こういう いみです。「あなたは ひとを ころしたくて ころしているのですか? もし、そうでないのなら、あなたには ひとを ころさない自由があります。あなたが じぶんの 意思で ひとごろしを やめる決断をなさるのなら、わたしは それを支持します」と。
 tikani_nemuru_M さんは、わたしの かたる自由について、「他者がどこにもいない自由」と のべていますが、これが わたしが「こうありたい」と かんがえる 他者との むきあいかたです。もっとも、エラソーなことをいうわりには、げんじつの わたしは ぜんぜん聖人君子などでは ありません。しばしば、他者に権威主義的にあたったり、暴力的な ふるまいを しています。しかし、そうするのは わたしの自由な意思の結果として そうしているのであり、「そうしない自由」もあったのだと いうことを 否認すべきでは ないと おもうわけです。


 さいごに。
 わたしにとって、けっこう へこむコメントも あったのですが、いっぽうで うれしい コメントも たくさん ありました。そのなかの ひとつに、id:kurotokage さんによる、以下のコメントが ありました。

# 2008年07月07日 kurotokage anarchism, 自由, 倫理 Anarchy is Order.アナキズムにおける「自由」の話。私が殺されないのは法が禁じるからではなく他者が私を殺さない自由を選択しているから。法が許せば人を殺すのか?


 「他者が私を殺さない自由を選択している」という ことばには、おもわず ひざを たたきました。わたしたちの安全を ささえるのは、法律やケーサツより、まずは他者なのだと おもいます。そこに 可能性を さぐるのが、アナーキズムでしょう。
 こういう かんがえかたが、もし「中二のような理屈」だと いわれるのなら、わたしは しぬまで「中二」で いいですよ。「カルト」でも「アホ丸出し」でも「馬鹿」でも「デムパ」でも「脳の失敗」でも、かまいません。どうぞ なんとでも いってください。

*1:元記事では、さいごのところを 太字にしていません

*2:太字強調は、原文のとおりです