みたび自由について

 tikani_nemuru_Mさんから、ふたたび反論を いただきましたので、おこたえします。


認められた時にだけ自由がありえる - 地下生活者の手遊び


 まず、はじめに確認して おきたいのは、わたしと tikani_nemuru_M さんの あいだには、「自由」ということばの とらえかたに、おおきな ちがいが ある、という点です。このことは、前回7月8日の記事でも かいたのですが、もう1度 確認しておきます。
 わたしの いう「自由」とは、みとめたり 制限したりすることの原理的にできない、意思の自由です。
 これにたいして、tikani_nemuru_Mさんは、みとめられる(べき)、あるいは制限されるべき「自由」とは なにか、そして、その根拠となるのは なんなのか、という水準の議論をされています(というふうに、わたしは理解しました)。
 このちがいを ふまえたうえで 今回のtikani_nemuru_Mさんによる わたしへの批判を 検討していきたいと おもいます。


 まず、エントリの前半2つの節、「1)必要悪としての統制」「2)公僕という存在」について。
 ここで論じられているのは、公職につく者の自由の制限についてです。ですから、わたしの もんだいにする「自由」とは ちがいます。しかし、せっかくだから、ここにたいする わたしの かんがえかたを あかしておきますと、tikani_nemuru_Mさんの のべていることに とくに 異論は ありません。肩すかしを くらったような 気がするかもしれませんけど、そもそも議論のレイヤーが ちがっていたのです。

つまり、死刑執行やデモ隊鎮圧が公職にあるものの義務であるか否か、死刑執行やデモ隊鎮圧が各人の自由を実質的に担保する目的に沿うか否か、ここが問題の焦点となるわけにゃんね。弱者の自由を実効的なものにするためには、職責が重くなるほどに自由はなくなっていくということだにゃ。法務大臣などという重責にあるものに、「自由」など認めてよいはずがにゃーだろう。法務大臣は、各人の自由を実質的に担保するために法行政を行う僕(しもべ)なのだにゃ。
おまわりや法務大臣に自由があったら、困るのは弱者だぜ。


 さいごの「おまわりや法務大臣に自由があったら、困るのは弱者だぜ」について、わたしも完全に同意できます。たしかに、かれらに、tikani_nemuru_Mさんの いう いみでの「自由」を「みとめる」べきでは ないでしょう。
 もっとも、それを「自由」という語で よぶのが ふさわしいのかどうか、という もんだいは あると おもいます。また、それじゃあ、なぜ わたしが 「おまわりや 大臣に自由を!」と のべたのか、ということについても、再度せつめいする ひつようが ありそうです。この2点については、あとで ふれます。
 なお、統制が「必要悪」である という見解にも 賛成します。ただし、「『必要悪』なのだから、それを わたしたちは 容認するべきだ(容認するしかない)」とは、かならずしも おもいません(tikani_nemuru_Mさんも、そうは かんがえていないというふうに、わたしは 理解しています)。
 統制が「必要悪」ならば、その「必要」を「悪」ではない べつの手段でみたすか、もしくは、その「必要」そのものを なくす しくみをつくりあげるか、ということを、だれかが模索すべきでしょう。


 では、tikani_nemuru_Mさんの エントリの後半および追記に たいして、おこたえしましょう。

では、「自由は「みとめる」ものではない」などというウルトラ馬鹿理屈をひねりつぶしてみますにゃ。
胎児や新生児には全能感があると発達心理学においていわれますにゃ。完全に充足しきっていて、全てが満たされる者の全能感。ところが、すぐに乳児は自らが完全に無能力であり、他者によって生かされているということを知るのですにゃ。辛い現実にゃんね。ニンゲンにとって生長とはこの胎児の全能感を脱し、現実原則にしたがって生きられるようになることだとフロイトは説きますにゃ。
lever_buildingを中二といったことは確かに不適切でしたにゃ。彼は胎児〜新生児にゃんね。全能感がベースになっているようですからにゃ。
そんなに自分は自由だというのなら、器具に頼らずに空を飛んでごらん?
できにゃーよな? 物理法則とか生物学的限界とかいう制約があるからにゃ。


 tikani_nemuru_Mさんは、わたしのいう「ひとを ころす自由がある」の いみを、「ひとを ころす能力がある」と理解しているようです。しかし、わたしは、自由を《能力》ではなく、一貫して《意思》のもんだい として かたっている つもりです。
 このことは、わたしが このエントリを かくまえに、Kazu's さんが 指摘してくれています。ぜひ、ごらんに なってください。


Kazu'Sの戯言Blog(新館) それは奴隷の自由であって人間の求める自由とは異なるもの


 さて、tikani_nemuru_Mさんは、追記で わたしが以前かいた「能力」についての文章に 言及してくれています。

lever_buildingは過去記事において能力の内在を否定的に捉え、関係性を称揚していますにゃ。それはとりあえずいいでしょうにゃ。
ところが彼は今回、自由の内在性を語りたかったのだけれど、語ったのは能力の内在性でしかなかったのですにゃ。彼の元エントリでは、「自由」を「能力」と変換したほうがすっきり意味の通る記述が多くあるんだにゃー。
語っているのが能力だから、他者が存在しにゃーし、強者の論理にしかならにゃーわけだ。lever_buildingは自由について語ってなどなかったのですにゃ。


 たしかに、わたしは あそこで「能力の内在を否定的に捉え、関係性を称揚」しました。ただし、《意思》ではなく、《能力》の はなしとして です。
 能力を ひとりの にんげんに内在したものと とらえるかぎり、わたしは ほとんどまったく「無力」というほか ありません。じぶんひとりの ちからでは、ひつような たべものを てにいれることすら できませんし、まいにち職場に かようことさえ、できない(職場は 歩いていけるような距離にないので)わけです。
 だから、「たべものを てにいれたい」という《意思》を現実化するためには、他人との協力が どうしたって かかせません。
 しかし、わたしという ひとりの にんげんが《能力》として ほとんど無力だとしても、わたしが おこなった行為については、どうしても そこに わたしの《意思》を みないわけに いかないのです。
 なるほど、《意思》は みえにくいものです。わたしが なんらかの行為を なすまえに あらかじめ じぶんの《意思》を 自覚していることは、まれです。わたしが あるいているとき、「みぎあしを だそう、つぎは ひだりあしだ」なんて かんがえていません。わたしは、いわば機械的に あるいています。しかし、そのように機械的にふるまっているときでさえ、わたしの行為は わたしの《意思》なくしては、けっして なりたたないはずなのです。
 わたしが ずっと もんだいにしているのは、このいみでの《意思》の自由であって、「器具に頼らずに空を飛」ぶ といった《能力》では ありません。
 この点を ふまえたうえで、さきに「とくに 異論は ありません」と のべた、tikani_nemuru_Mさんの記事の前半ぶぶんを、よみなおしてみます。

日本国憲法自由民主主義を前提とする以上、統制とは各個人の自由を実質的に担保する必要においてのみ認められるということになりますにゃ。そして、公的なポストに就く者は、各人の自由を担保する目的においてのみ統制的な権限をふるうことを許されることになるわけにゃんね。
つまりここで、統制というものは権力者や公的地位にあるものをこそ拘束するものであるというのが自由主義のロジックということになりますにゃ。自由主義社会における権力者や公的地位に就くものには、各人の自由を担保するため以外の目的でその権限をふるうことは許可されにゃー。彼らに自由などにゃー。まさにそれは「公僕」なんだにゃ。


 くりかえしますが、わたしは このいみでの公務員の「自由」(というか、前段の「権限」の語を もちいるべきでしょう)は 制限されるべきだと かんがえています。かりに わたしが公務によって じぶんの権利をおかされたと かんじたなら、裁判にうったえるでしょう。公務員にたいしては、法にのっとれと もとめます。つかえる法的手段は つかう。あたりまえです。
 しかし、公務員による行為が「各個人の自由を実質的に担保する必要においてのみ認められる」という要件を みたしているのかどうか、という判断は、(法律にもとづいて おこなわれるにせよ、また、その法律の制定もふくめ)にんげんの意思によるしか ないわけです。
 また、死刑執行は いまのところ適法なのでしょう*1。死刑は、てきせつな 法的手続きに のっとって、「粛々と」執行されうるわけです。というか、死刑の執行なんて、さだめられた形式的な手続きに もとづいて みずからを機械の一部品に みたてないかぎり、たぶん きつくて やってられない しごとでしょう。オマワリが デモ参加者に暴力をふるう ばあいも おなじです。
 はとやまさんや 刑務官にしろ、オマワリにしろ、あるいは戦場の兵隊*2にしろ、ひとりひとりの にんげんとして みれば、とくべつな にんげんじゃあ ないはず。たのしく いっしょに酒を のめるだろうし、みちを たずねれば しんせつに おしえてくれるような ひとたちでしょう。かれらひとりひとりが どこにでもいる ありふれた にんげんの ひとりであることは あきらかです。
 そして、こうした にんげんの善性は、ひとりの にんげんが《能力》として ほとんど無力であること(「弱者であること」と いっても よいかもしれません)に 由来すると おもっています。権力から はなれれば、にんげんは たいがい善人でしょう。
 tikani_nemuru_Mさんは、こういっています。

lever_buildingのロジックって、結局のところ法務大臣とか警官に対する「お願い」以上のものではにゃーよな。「する自由もしない自由もあるから、良心にしたがってください」でしかにゃーもの。ニンゲンを信頼するってのはスバラシイことにゃんが、権力者を信頼するのはアホ丸出しにゃんぜ。奴隷の理屈だにゃ。
これでアナキズムやキョクサをきどるっては、ヘソでマグマが沸騰しちゃうよにゃー。


 はんぶんは そのとおりです。わたしは「ニンゲンを信頼」する あまちゃんです。にんげんとしての はとやまさんは、ただの ちょっと おっちょこちょいな おっさんでしょう。ランボーのような はがねの精神力を もちあわせているとは みえません。
 しかし、権力者としての はとやまさんは おそろしいです。だから、法務大臣としての権限を制限することが ひつようだというのは、そのとおりです。
 それにしても、ただの おっちょこちょいな おじさんが、どうして殺人なんていう だいそれたことを おこなえるのでしょうか。それは かれが じぶんを 国家という機械の一部分と みなすことによってでしょう。もっとも、その反面で かれは じぶんが機械ではなく、意思をもった にんげんであることに くるしんでいるようにも みえます。かれが「ベルトコンベアー」なんて いったのは、法務大臣が「ほんとうの機械」だったら らくになれるのに、ということでしょう。
 それに たいして、わたしは「あなたは自由だ。機械ではなくて、意思をもった存在だ」と いいたかったのです。
 なお、さいしょの記事で わたしは「はとやま法務大臣に自由を!」と かきましたが、これは てきせつな表現では なかったと おもいます。id:Romance さんは、はてなブックマークで「品行方正で「良識的」な人々や警棒をぶら下げて闊歩する警察官や憂鬱な気持ちで刑場に立つ刑務官や法務大臣や皇族やあなたやわたしに自由を!!/自由をっていうか自由なんだよ」と コメントしてくれました。そうですね。わたしが はっきり かくべきだったのは、「自由を!」ということではなく、すでに「自由なんだよ」ということでした。その点で、わたしの かきかたは まずかったと おもいます。
 ともかく、法的な手続きを きびしく きめることは、権力の乱用を制限するうえで 重要でもありますが、それは同時に、ふつうの おっさんによる ひとごろしを可能にしてしまう条件でもあるのでは ないでしょうか。だから、ひとごろしが「悪」だと かんがえるならば、あなたや わたしが 法にのっとって機械的にふるまっているつもりでも、「そこに自由な意思が はたらいている じじつを みなさい」ということを、いわなければならない。これは とても きびしいことだけれども。そのようにして公務員の にんげんとしての良心に といかけることは、公務員の権限を制限することと、両立しうるのではないでしょうか。杉原千畝(すぎはら・ちうね)は、そのことを わたしたちに しめしてくれているように おもいます。
 とりあえず、tikani_nemuru_Mさんへの おへんじは、以上です。

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 さいごに 蛇足かもしれませんが、なぜ わたしが自由ということばを、さいしょに のべたような「みとめたり 制限したりすることの原理的にできない、意思の自由」という いみで つかっているのか、せつめいします。こうした用法が、常識から かけはなれたものであることは、わかっています。常識的には、「他者に危害をくわえないかぎり自由だ」とか「公共の福祉をそこなわないかぎり自由だ」といったかたちで、自由の語がつかわれているのは、もちろん しっています。
 tikani_nemuru_Mさんは、わたしの ぎろんに がまんがならなかった理由として、「そもそもあの論考で言及されていたのは僕の理解する意味合いにおける『自由』の概念とは何もかかわりのにゃー醜悪な奇形的まがいものをもって『自由』を論じているつもりになっているのを見たからでしょうにゃ」と のべています。しかし、わたしの目には、うえのような常識的な「自由」のかたられかたこそが、「醜悪な奇形的まがいもの」に うつるのです。
 この点については、さっきリンクした Kazu'Sさんも、わたしのと似た違和感をもっておられるようです。

自由とは自らの意志で自らの行動の制限を決定することが出来るという意味です。であるから、例え自分が弱者であったとしても、強者にその自由の範囲を承認して貰うなどというのは自由とは呼べない訳です。


 おっしゃるとおり、「強者にその自由の範囲を承認して貰う」などというのは、ことばの つかいかたとして、きわめて むじゅんしたものです。これが「自由」なのだとしたら、「市民の自由」とは、刑務所の囚人や、ひもに つながれた いぬの「自由」と、その程度がちがうにすぎない、ということに なってしまいます。これこそ「奴隷の理屈」では ないでしょうか。
 「強者に承認してもらう」と いわなくても、「公共の福祉をそこなわない かぎり」といった限定を わざわざつけてしまえば、Kazu'Sさんのいう「自らの意志で自らの行動の制限を決定することが出来る」という自律性は そぎおちてしまいます*3。そのとき「公共の福祉」は、わたしの自由にとって、これを制限する外在的な なにかに なっているからです。あるいは、こういって みましょうか。「公共の福祉」が にんげんの意思や主体に さきだってあることになってしまう、と。他律的な自由!
 そして、わたしたちが こうした「自由」の用法に ぎもんを いだかないのだとしたら、そこで「自由」が かたられているように みえても、じっさいには自由は まったく かたられていないのではないか。いつのまにか、わたしたちの かたる自由は ほねぬきに されてしまっているのでは ないでしょうか。
 他者によって、あるいは法的に「みとめられる」べき行動の範囲は、「自由」ではなく、「権利」なり「権限」なりの語で かたってみては どうでしょうか。そのほうが じつは正確だし、ずっと わかりやすいんじゃない?
 だから、誤解されることは なかば覚悟したうえで、たしょう挑発的な かきかたを してみたということも じつは あります。ここまで誤解されるとは おもってもみませんでしたが。


参考
サルトル哲学における自由とは - 猿゛虎゛日記
 サルトルのいう自由についての、sarutora さんによる、とっても ためになる解説です。というか、自由って こわーいって おもいます。
 じつは わたしは サルトルも、ここで引用されている sarutora さんの本も まだ よんでいません(後者は Amazon で注文していたのが きのう とどきました)。ところが、いつも よませて いただいてる sarutora さんや、さいしょの記事の追記で紹介した つねのさんの ブログをつうじて、いつのまにか サルトリアンに なりかけているのかもしれません。
 サルトルっていう ひとは、わたしが いままで よんできた本のなかでは、たいてい否定的にとりあげられていたので、なんか敬遠しちゃってたのでした。でも、これは よまねば、ですよ。そう おもいました。ということで、おふたりには とても感謝しています。


図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

*1:憲法36条が禁じる「残虐な刑罰」に あたるようにも おもえるけど。

*2:むろん、「合法的」に ひとをころす職務を負っている、という例として「兵隊」をあげています。

*3:なお、このKazu'Sさんの定義は、わたしの かんがえる「自由」と じゃっかん ちがってもいます。わたしの かんがえでは、自由とは「決定することが出来る」ということでもありますが、どうじに「あらら、決定しちゃってるよ」というかんじでも あります。