「敵意」について――すこしずつ「日本人」を やめるために

 ひとつまえの 記事(というか「攻撃文」)で「おれは 敵意をもつ」という いいかたを しました。ところが じぶんで かきながら、「なんか この文 へんだな」と 感じました。なんか すわりが わるいように おもいます。そのひっかかりが どこから くるのか、ちょっと かんがえてみます。


「○○が わたし(たち)に 敵意をいだいている。」


 これは 文として 自然な 感じが します。しかし、ためしに、この文の 主語と 目的語を いれかえてみると、どうでしょう。


「わたし(たち)は ○○に 敵意をいだいている。」


 なんとなく しっくりこない。こういう いいかたは、あんまり しないように おもいます。すくなくとも、わたしは みみにした おぼえが ありません。
 じぶんの なかの「敵意」が おもてだって かたられることは、まれなことでは ないでしょうか。そのいっぽうで「わたし(たち)に たいする ○○の敵意」だとか「○○は 日本人(日本社会)に 敵意を もっている」といった かたちの かたりかたは、しばしば みかけます。
 こういった ばあい、「敵意」なるものは、《じぶん(たち)以外の だれか他人の「意(こころ)」のなかに あるもの》と みなされているのでしょう。しかし、それは 他人の こころの もんだいなのでしょうか。
 わたしが もんだいにしたいのは、「他者からの 敵意にさらされている」と ただ感じられているだけに とどまらず、それが おおっぴらに かたられるのは どういうときなのか、ということです。
 だいじなのは、たとえば「○○は*1 われわれ日本人に 敵意を いだいている」と かたられるとき、そう かたっている ひと自身が、すでに ○○に たいする 敵対関係を 宣言しているということです。ここには 二重の ずるさが あるように おもいます。
 まず ひとつは、このひとは いっぽうでは「○○」と「われわれ日本人」の あいだに 敵対関係を みとめているにもかかわらず、それを もっぱら あいての「敵意」の もんだいとして かたっている、ということ。「在日の 日本人にたいする 敵意」などと 公言して はばからないひとは、あきらかに「在日」に敵意を いだいています。ところが、このひと自身の敵意は ことばの うえでは かたられないわけです。あるいは、じぶん自身が 宣言したはずの 敵対関係を あいての「敵意」へと 転嫁しているのだと いっても よいかもしれません。じぶんで けんかを うっているくせに、「『敵意』を もっているのは じぶんではなく あいてだ」と いうわけです。
 もうひとつの「ずるさ」というのは、うえのように かたる ひとは「日本人」という マジョリティ集団に よりかかる かっこうで 敵対関係を 宣言していることです。しかも ここでの「日本人」とは、あいてから 一方的に「敵意」を むけられている 対象としての「日本人」ということに、かれらの あたまの なかでは なっています。つまり、かれらが かたっているのは「けがれのない きよい こころの われわれ日本人にたいして、○○の連中は 敵意を いだいているぞ」と いうことに ほかなりません。
 わたしは、そのような「日本人」の ひとりと みなされてしまうことに がまんなりません。だから、かれらの空想する「日本人」像を ぶっこわして やりたいのです。
 不本意なことに わたしは 日本人と みなされることが あります。ただし、わたしは「日本人である」わけでは ありません。本質主義的に「日本人」を 規定することは できません*2。他者が わたしを「日本人」と みなすたびごとに、わたしは「日本人になる」のです。
 それは しばしば わたしにとって はずかしいことです。なので、わたしは、「日本人」という自己規定に まどろみ、そこから でようという 意志を もたない あなたたちに むかって、敵対関係に はいることを 宣言します。わたしは きみたちに 敵意を いだくことを かくさない、と。
 このことは 酒井直樹(さかい・なおき)さんが「日本人を割ること」または「少数者政治(マイノリタリアン・ポリティックス)」と よんでいることに つうじると おもわれます。
 以下 引用するのは、日本の植民地主義の犠牲になった ひとたちから、「日本人」としての責任を とわれた わたしたちが、その責任を否認するのではなくて、どのように こたえてゆくべきなのか、ろんじた くだりです(『日本/映像/米国――共感の共同体と帝国的国民主義』2007年 asin:4791763505)。

 つまり、日本人を割ることだ。私は恥の感覚のなかにおり、私は戦争責任を問う人々の眼差しのなかにいるわけだが、そのような人々の問いかけに答えることは、自からが有罪可能性の立場におかれていることを否認することなく、しかし、責任を問う人が押しつけてくる日本人という規定に抗議し、日本人の内実を大きく変えていくことだろう。単に有罪可能性の段階で留まるべきではなく、集団としての責任の段階から、有罪の度合いや戦争犯罪との個人のかかわりを探索してゆくことである。戦争犯罪者を日本国民の中から、はっきりと、突き出すことだ。日本人の内実を大きく変えていくためには、日本人を統合するどころか、日本人の即自的な共同性に分裂を持ち込むことが必要なはずだ。それは日本の国民主体に干渉し、その日本人の統合の幻想に干渉することである。
 それは、責任を問う人々や組織的犯罪としての従軍慰安婦制度の犠牲になった人々に対して、「私はあなたがたを友人として選ぶ。私は、同胞ではなく、友人であるあなたがたとこれから永く共に生きることを選ぶ」とはっきり示す義務を引き受けることだ。これが、私にとって、従軍慰安婦問題の文脈で考えうる、ポスト・コロニアルな責任の在り方だと思う*3

……国民の責任を国際的な場で問い、国民史ではない歴史を探索することは、共感の国民共同体を離れ、私たち自身を開かれた者にし、国民共同体の外で犠牲になった人々の傷や苦悩への感受性を養い、これまでつきあうことが億劫だった人々と新たな社会関係を作るための、絶好の機会であり、国際的な資本によるグローバライゼーションがもたらす商品化を通じた均質化とは違った国際的な連帯を作るための僥倖だろう。過去の歴史の継続としての、たとえば、「日本人」あるいは「白人」という押しつけられた立場をとりあえずは承認しつつ、「日本人」として「白人」としてあるいは「男性」として責任に答えることによって、「日本人」でも「白人」でも「男性」でもない、違った関係を人々と打ち立て、同一性から逸脱できる社会的空間が切り開かれるはずだからである。歴史的責任に応答することを通じて、私たちは一歩ずつしかし着実に、「日本人」「白人」あるいは「西洋人」であることを止めることを目論もう。歴史的責任は「在日非日本人」「変な白人」あるいは「西洋人のなり損ない」への通路であり、この通路を私は少数者政治(マイノリタリアン・ポリティックス)と呼んできた*4

*1:「○○」に 代入される ことばは、「反日サヨク」でも「在日」でも いいでしょう。

*2:ねんのために 補足しますと、わたしは ここで、日本国籍をもっている「日本国民」について のべているのでは ありません。「日本人」なるもの(の本質)は、「文化」でも「言語」でも「血統」でも 規定できませんよ、という はなし。

*3:301-2ページ。

*4:304ページ。