ともだちに ついて(3ねん2くみ やねごん)

 「ともだち」とは、どういう ひとの ことを いうんでしょうか?
 ぼくが いっしょうけんめいに なにかを やっているとき、ぼくの あしを ひっぱって じゃましてくる ひとが、ほんとうの ともだちだと おもいます。たとえば、ぼくが テストで よい点を とるために うちで べんきょうしてたと します。そんなとき、「やねごんくん、あーそーぼー」と さそってくれるのが、ぼくにとって だいじな おともだちです。「おまえ、なに べんきょうなんか してるんだよ。そんなの やめて ゲームして あそぼうぜ」と いってくれる ひとは ともだちです。
 でも、もし、その おともだちが そうやって ぼくを あそびに さそうくせに、こっそり じぶんだけ べんきょうして テストで いい点を とったとしたら、そいつは ともだちでは ありません。むしろ、うらぎりものです。やっつけたいです。
 せんせいは「ともに せっさたくまして、おたがいに たかめあうのが ほんとうの ともだちなのだ」と いいました。「ともだちが がんばっているときに あしを ひっぱるのは、わるい ともだちの することだ」と せんせいは いうのです。
 せんせい、でもね。ともだちというのは、きそって おなじ やまに のぼる あいだがらのことを いうんでしょうか? ぼくは ちがうと おもいます。ともだちは きそいあいません。なぜなら、きそいあうと けんかに なるからです。ともだちどうし、おんなじ ひとに 恋を してしまうと、つらいですよね。ぼくは とても つらかったです。
 恋の はなしは やめましょう。かなしくなるから。はなしを もどします。
 「よーい、ドン」と いって 競争すると、まけたほうは みじめだし、かったほうは かったほうで なにか ひけめを かんじて しまいます。せんせいは いいます。「おまえが かったのは ひとより どりょくしたからだ、がんばったからだ」と。せんせいは かった ひとが ひけめを 感じずに すむように そう いってくれるのだと おもいます。
 でも、かりに ぼくが「ひとより がんばった」のだとしたら、そのこと自体に ぼくは うしろめたさを 感じるべきだと おもうのです。なぜなら、ぼくが なんのために がんばったのか、ぼく自身が よく しっているからです。それは ともだちの ためでは ありませんでした。だんじて そうでは なかったのです。しかも、ぼくは じぶんが かった ばあいでも、せんせいの いうように、ほんとうに「ひとより がんばった」のかどうか、ぎもんに おもうのです。
 ぼくと ともだちが おなじ やまを きそいあって のぼろうと しむけられているとき、ほんとうの ともだちは ぼくに おしえてくれます。「べつに あんな やまに のぼらなくても いいんじゃないのか。もっと たのしいことが あるよ」と。「なにも わたしたち きそいあうこと ないじゃないか」と。
 ほんとうの ともだちは ぼくを さそってくれます。「あんな やまに のぼるより、わたしと いっしょに あそうぼうよ」と。「ともに 競争から おりようじゃないか」と。かつて ともだちから そういう いみのことを いわれるたびに、ぼくは ほんとうに こころの 底から うれしかったのです。うそじゃ ありません。
 だから、ぼくは いっしょうけんめい やっている ひとを みたら、その ひとの あしを ひっぱろうと おもいます。「そんな ことを やるより、いっしょに さぼろうぜ」と。でも、ぼくに そう いわれた ひとは めいわくそうな かおを するかも しれません。 たしかに、その ひとには いっしょうけんめいに やらなければならない 事情というものが あるのでしょうから。けれども、ぼくは いいたいのです。「チンタラ やろうよ」と。
 しごとよりも ずっと ずっと たいせつなものが あるのです。それは らくを すること、たのしく すごすことです。その じゃまを しているのが、「いっしょうけんめいに やらなければならない 事情」という やつです。そういう「事情」を やっつけるために ともに たたかう。それが ともだちと いうものでは ないでしょうか。