へー、こくさいじん?

 「平成国際大学(へーせー こくさい だいがく)」という なまえの だいがくが あるらしい。へー。
 きっと、「へーこくだい」とか りゃくされてるんだろうな。しかも、「こくさい」という ことばには 「くさい」という おとが ふくまれておるので ございます。つまり、「へーこく」に 「くさい」というわけですから、ますます におってきそうな いい感じですね。
 まあ、オナラのことは いいのです。そりゃ オナラぐらい するさ。にんげんだもの。それより、「平成」と「国際」の くみあわせが このうえなく いかがわしく かんじます。
 「平成」というのは ナショナルな こよみのことですね。にほんで こくみんてきに つかわれている「元号」とか いうやつです。わたしは ひこくみんなので つかいませんけれど。書類に 「平成_年」という 欄が ある ばあいは、わざわざ「平成」を 横線で けして、「2008年」などと かきこんでいます。西暦を つかうのも シャクですが、元号よりは マシです。
 いっぽう、「国際」というのは、インターナショナルのことです。すなわち「こくみんを こえる」という いみです。
 すると、「平成国際」って なんですか? わけが わかりません。こういうふうに まぎゃくの いみの ことばを かさねる センスが「きもちわるいなあ」と おもうのです。
 しかし、これと にたような 「国際」という ことばの つかいかたは、よく なされるのですよね。「国際人に なるためには まず じぶんの くにのことを しらなければならない」とか。こんなことを いう ひとを、こんどからは 「平成国際人」(りゃくして「へーこくじん」)と よんでやりましょう。
 それにしても、かれらの かんがえる 「国際社会」とは いったい なんなのでしょうか? かれらによると、まず わたしたちは 「こくみん」に ならないと さかえある「国際社会」には でてゆけないようです。つまり、「国際社会」とは 「もろもろの こくみんから なる あつまり」ということに なりそうです。わたしたち ひこくみんは なかまに いれてもらえないのでしょうね。
 わたしは 国際社会を みたことが ないので イメージするしか ないのですが、きっと そこでは こくみんども(すなわち、植民地主義者ども)が、いかに われわれ ひこくみんを 支配し、しぼりとるかが はなしあわれているに ちがいありません。おそろしいです。
 そういえば、かつて 国際社会の メンバーと おぼしき ひとたちを みかけたことが あります。わたしの かよっていた だいがくには 「国際関係論」とか いうものを まなぶ コースが ありました。なにか きみが わるかったので わたしは ちかづかないように していたのですけど。わたしと おなじく ひこくみんな ともだち(仮名:わたなべくん)は わたしに おしえてくれました。
「あいつら、ゼミで『アメリカの かんがえは……』とか、『北朝鮮は……と いっている』とか、『にほんは……べきだ』とか、そういう しゃべりかた してるんだぜ。アメリカって 大陸の なまえじゃ なかったか? 大陸が もの かんがえたり、しゃべったり すんのか?」
 けっきょく、わたなべくんと わたしの あいだでは、「きもちわるい やつらだな。きっと バカなのだろう」というところに はなしが おちつきました。バカなのは じつは わたしらのほうだったのかも しれませんが。かれらは なんか ぎじんほうを つかいこなした ぶんがくてきな ひょうげんを していたのかも しれません。いまとなっては しるよしも ありませんけれども。
 なんにせよ、国際社会の メンバーとか、その メンバーに なりたがっている やつらというのは、ろくなもんじゃ ありませんよ。植民地の 原住民や、法的に 「こくみん」の 資格を あたえられていない 移民など、さまざまな かたちの ひこくみんは、やつらの サロンには いれてくれないのです。
 でも、かんがえても みてください。わたしたちは 「原住民」か 「移民」か どちらかであるほか ないでしょう。わたしは いま すんでいるところでは 移民ですけど、ふるさとの 蝦夷地(えぞち)に かえれば 原住民です。ふるさとに すんでいる ひとは 原住民ですが、ひっこして ふるさとを はなれれば 移民に なります。「2世」とか 「3世」とか、いや いっそのこと「10世」とか 「16世」とかの かんがえかたを もちこめば、すべての にんげんは 移民でしょうね。じんるいは みな 「移民」です。こう かんがえてみると、「こくみん/移民」という わけかたが いかに ばかげたものか わかります。
 しかし、おろかにも じぶんが どこかの くにの 「こくみん」であると にんしきしている ひとたちというのが、たくさん います。かれらは じぶんが 「移民」たちに たいし 特権的な 「こくみん」であると おもいこんでいるのです。やつらは 「不法移民」の そんざいが なにか もんだいででも あるかのように いいます。たかが 「不法」であることの なにが もんだいだと いうのでしょうか。ただ たんに 「ほうりつに ふれている」というだけのことであって、べつに なんら つみを おかしているわけじゃ ないでしょう? 「不法・違法・触法」(ほうりつを おかすこと)と 「犯罪」(つみを おかすこと)とは かならずしも おなじことでは ありません。ところが、この ふたつを 混同する ひとが おおいですね。
 こういう 混同は、じぶんが 「こくみん」であると にんしきするところに 由来します。つまり、かれらは じぶんが 法を 制定する 「主権者」であるかのように おもいこんでいるのです。だから、じっさいのところは くにが おしつけてくる ほうりつを 正統なものであるかのように とらえ(誤認し)、「ほうりつによって 『こくみん』の 資格を あたえられた じぶんたち/それを あたえられていない 『不法移民』である かれら」という 二分法を うたがわないのです。
 住民には ふたとおりの ありかたが あります。ひとつは じぶんが 「こくみん」であると かんがえ、これに ふさわしく ふるまおうと すること。ここにおいては、「われわれ住民」と 「主権者」が 同一視され、政府は「われわれ住民の 政府」と にんしきされています。そして 「われわれ住民」のなかに ひこくみんは ふくまれていないのです。
 もうひとつの 住民の ありかた。それは、じぶんたちの すんでいる とちが 植民地支配を うけていると にんしきし、ふるまうことです。つまり、政府を わたしたち住民にとって そとから やってきた 統治者・統治機構と とらえることです。それは アナーキストの せかいの とらえかたです。それは また、宗主国からの 「どくりつ」を かちとることで だらくしてしまうまえの ナショナリスト、すなわち 植民地解放の たたかいの まっただなかにある ナショナリストの かんがえかたです。かりに 「どくりつ」を かちとったところで、植民地支配は 解消されません。たんに、「主権者住民」と 「非主権者住民」の あいだの 線が ひきなおされるだけだからです。「どくりつ」して あらたに できた 「こくみんこっか」は、ひこくみんの 住民を 植民地支配することを もくろみます。
 「にほん 対 北朝鮮」といった くにどうしの たいりつが じゅうようなのでは ありません。それは みかけだけの たいりつに すぎません。じゅうようなのは、もろもろの 「こくみんこっか」の 連合から なる 国際社会と、国際社会からの 植民地解放を めざす われわれ ひこくみんたちの あいだの たたかいです。