表記が 生成される 場に たちかえってみる

 ちょっと まえに 「学校という空間」をこそ もんだいに しようという 文章を かきました。これに たいして filinionさんに ブログで 言及していただきました。


我流漢字が資本を滅ぼす!(意味不明) - 小学校笑いぐさ日記


 filinionさんの 文章を さいしょに よんだ 時点では、わたしの ほうから つぎの 4つの 視点から おへんじする 予定でした。しかし、のちに filinionさんが ご自身の 文章の 3, 4に 関係する かしょを けずられたようなので、(←わたしの かんちがい はやとちりでした。filinionさんは 削除されてませんでした。コメント欄を 参照してください。)おもに 1, 2の ふたつの 論点について わたしの かんがえを のべたいと おもいます。

  1. 「ひつよう」とは なにか?
  2. 「言語」と 「表記」を くべつすべきでは ないか?
  3. 「よみにくさ」って なんだろう?
  4. 漢字かなまじり表記は 必然なのか?


 filinionさんは、大学生の 「漢字能力」が 低下しているらしいことを 示唆する 事例を、ふたつ あげています。ひとつは、自動車教習所の ペーパーテストの 漢字を よめずに 落第する 大学生が おおいらしい、という はなし。もうひとつは、大学生の 漢字検定の 成績が わるいという 報道。
 そのうえで filinionさんは つぎのように かいています*1

 本来は運転に関する知識を問うための問題なのに、「漢字」という国語的な問題で落第してしまう、というのは、わりと学校でも他人事ではありません。
 算数の問題の設問が理解できなくて答えられない、とか、ごく普通。
 lever_building氏に言わせれば「いかさまだ」ということになるでしょうか。
 「学校という空間」をこそ もんだいに しよう*2(やねごんの日記)
 まあ、そのあたりにはいろいろ疑問もありつつ、しかし、ある程度の国語力も必要だと思うのですよ。

  • 超人的な数学的才能を持っているけど言語的には小学生並み
  • レベルの高い大学に行けばそこそこゴロゴロしてる程度の数学的才能で、言語能力は人並み

 どっちの方が、社会に出て数学的才能を生かせるか、というと、たぶん後者でしょうから。
 そういう意味では、各教科等のテストで国語力が必要になるのが必ずしも不当だとは言えない、と思います。


 おっしゃることは わたしも りかいできる つもりです。「社会に出て」 漢字を よみかきする 能力が 「必要」だというのは そのとおりでしょう。プロフィールによると filinionさんは 小学校の せんせいを なさっているそうです。わたしだって もし おなじ たちばだったなら、こどもたちに 「漢字の よみかき能力は 『社会』で 『ひつよう』だから きちんと べんきょうしなさい」と アドバイスすると おもいます。もっとも、それは 「アドバイス」というより むしろ 「おどし」と いうべきでしょうけどね*3
 ともかく、さしせまった 「ひつよう」は みたされなければ ならないのは たしかでしょう。そのことは わたしにも わかります。だから、わたしは いっぽうでは 漢字かなまじりの 表記を もんだいにしているものの、それを いま 学習している ひとや、その教育に たずさわっている ひとに むかって 「やめとけ」とか 「そんなもの やらなくても いい」なんて いえません。
 しかし、そのように 《ある ことがらが いまの「社会」で いきてゆくために 「ひつよう」であると みとめること》と、《それが 「ひつよう」に なってしまっている 「社会」の ありかたを もんだいにすること》は わけて かんがえたいと わたしは おもいます。
 わたしの にほんご表記についての かんがえかたは、《いまの にほん社会で いきてゆくために 漢字能力は ひつよう*4なのは みとめる》けれど、《それが ひつようと される 「社会」の ありかたは もんだいだ》という ものです。
 そして、だいじなのは 漢字を おぼえることが 「ひつよう」だという 状況は、ただたんに わたしたちの そとがわに あるだけでは なく、わたしたち自身が つくっているものでも ある、ということです。
 つまり、こういうことです。わたしたち自身が 漢字を つかって にほんごの 文章を 表記するのは、いっぽうでは わたしたち自身が 「ひつよう」に せまられて やっていることです。ブログで ひらがなだらけの 文章を かくだけでさえ*5、「あたま わるそう」と いわれたりも します。また、「よみにくい」と いわれたり、「こんなものは まともな にほんごでない」と 判断されたり することで、よんでもらえないことも あるでしょう。漢字を つかわないことは むずかしいし、その いみでは わたしたちは じぶんの そとがわにある 「ひつよう」に せまられて 漢字を つかった 文章を かいているわけです。
 けれども、たほうで、そのようにして 漢字を つかうことによって、わたしたちは にほんごの よみかきを まなぼうとしている ひとたちにとっての 漢字を おぼえる 「ひつよう」を つくりだしてしまっているのも じじつです。そして、その 「ひつよう」の ハードルが ひどく たかいものだと いうことは、さいしょに リンクした わたし自身の 記事のほかに、「漢字について」という 文章で すでに かいているので、ここでは くりかえしません。
 わたしが こころみているのは、漢字を 「ひつよう」としない 文章の ありかたを すこしずつ さぐってゆくことです。
 したがって、もんだいは、そのように 漢字を 「ひつよう」としない にほんごの 表記は 可能なのか、ということに なるかと おもいます。ここで 注意したいのは 「言語」と 「表記」は べつだということです。filinionさんは おそらく この ふたつを ごちゃまぜに しているのでは ないかと おもいます。
 さきに 引用した ところでも、filinionさんは 記事の 前半では 「漢字能力」(つまり、「表記」に かかわること)を もんだいにしていたはずなのに、とちゅうから はなしを 「言語能力」の もんだいに すりかえています。
 もう いちど 引用します*6

 まあ、そのあたりにはいろいろ疑問もありつつ、しかし、ある程度の国語力も必要だと思うのですよ。

  • 超人的な数学的才能を持っているけど言語的には小学生並み
  • レベルの高い大学に行けばそこそこゴロゴロしてる程度の数学的才能で、言語能力は人並み

 どっちの方が、社会に出て数学的才能を生かせるか、というと、たぶん後者でしょうから。
 そういう意味では、各教科等のテストで国語力が必要になるのが必ずしも不当だとは言えない、と思います。


 filinionさんの いうところの 「言語能力」を 「社会に出て」「ひつよう」な レベルにまで ひきあげるためには、10年以上、がっこうに しばりつけられ、おびただしい かずの 漢字と 熟語を おぼえなければ むずかしい。それを むずかしくしているのは にほんごという 《言語》の かべではなく、漢字という 《表記》の かべである。わたしは そのように かんがえています。
 表記を もっと やさしいものに、あるいは 多様なものに すれば、がっこうで ばかみたいに べんきょうしなくても、あるいは ばかみたいに べんきょうできる 環境に めぐまれて(?)いなくても、「言語能力」を いかすことは できるのでは ないでしょうか? 自動車教習所の テストで 「漢字能力」が たりないために おちてしまう ひとが いるなら、もんだいぶんを、漢字かなまじり表記のものだけでなく、ひらがな表記のものも 用意すれば よいのでは ないでしょうか? 音声でも テストを うけられるように するとか。いっそのこと、アラビア語や ハングルや スペイン語や イギリス語で 表記されたものも 用意すれば いいんじゃないでしょうか。そうすれば、いろんな 「言語能力」が いかせるよ。
 また、いちばん さいしょに リンクした わたしの 記事にたいし、filinionさんは はてなブックマークで つぎのような コメントを かいてくれています*7

[賛成できない][社会][学校]適切な評価、個人の能力に合った教育、家庭環境による不利益の是正…それを一番願っているのは学校関係者なんだけどな。/言語の複雑性はその柔軟性から生まれるもの。ニュースピークでも採用しないと是正不能かと。


 ここからも、filinionさんの かんがえかたにおいて 《言語》と 《表記》が くべつされていないことが わかります。言及された もとの 記事で、わたしは 《言語》では なく、《表記》の 「複雑性」を もんだいにしています。
 filinionさんの もちいている 「柔軟性」という ことばを かりれば、わたしの かんがえは こうです。すなわち、にほんごという 《言語》*8は、さまざまな かたちで 「柔軟」に 《表記》できる。「にほんごを 表記するのに 漢字を つかうことが あたりまえで 必然的だ」という かんがえかたこそが、《言語》ならびに 《表記》の 「柔軟性」を みおとしているのだ、と。
 なるほど、漢字かなまじり表記には 一定の 歴史的な 蓄積が ありますから、これを かえてゆくのは かんたんなことでは ないでしょう。じぶんの かく 文章から 漢字・熟語を ちょっと へらすだけで、つかえる ことばが かなり かぎられてしまうような きも します。
 しかし、いま 主流となっている 漢字かなまじりの 言文一致体にしたって、明治期に これを ねりあげてきた 文学者や しんぶん記者らが くろうして つくりあげてきた ものに ほかなりません。それは、漢文や あるいは ヨーロッパの 書物に なじんだ 当時の 知識人にとって、「つかえる ことばが かなり かぎられ」たなかで あたらしい 語彙(ごい)・表記法・文体を ねりあげてゆくことで ありました。そして、わすれては ならないのは、けっきょく 主流には なれなかったものの、当時から にほんごの かな表記や ローマ字表記を もさくする こころみが あったということです。
 つまり、いま わたしたちが 「あたりまえ」と かんがえている にほんごの かきあらわしかたは さまざまな 可能性の なかから えらばれ 実現されてきた ひとつの 結果として ある、ということです。そうして きりおとされた 可能性に なんども たちかえって、いまある げんじつとは べつの 可能性が ひらけないかどうか、ためしてみる。わたしが やりたいのは そういうことなのであって、それは オーバーな いいかたをすれば、明治期から いまに いたる、にほんご表記の ありかたを さぐってきた 先人たちの いとなみを うけつぐことです。もちろん、それは、ケータイ小説の 作家たちや メールで 中学生・高校生たちの いとなみも ふくめてね。わたしは ふべんきょうで まだ よく しらないんですけど。
 filinionさんは 「国語力」などという いいかたを されてますけれど、それは だれが どういう ものさしで はかるんでしょうかね? 「こくごは こういうものだ」とか、「にほんごは こう かかなければならない」とかといった きめつけからは じゆうに なりませんか? 「国語力」なんてものを だれかが 特権的に じぶんたちの ものさしで はかることなどできない、さまざまな 可能性に ひらかれた 地点にまで たちかえってみること。いいかえるなら、いまある 《表記》を 必然的な 結果と とらえるのではなく、それが 生成される 場に なんども たちかえってみましょう、ということです。それが 《言語》と 《表記》の 「柔軟性」を いかすことに つながるんじゃないか、と おもいます。ある 《言語》は さまざまに 《表記》できるし、そうして 《表記》を もさくしてゆくことは 《言語》の ありかたをも かえてゆくでしょう。

*1:赤字による 強調は わたくし。

*2:元記事では わたしの 記事へ リンクしてあります――引用者註

*3:わたしが こんなことを いうのは、せんせいを されている filinionさんを たかみにたって そとがわから 非難するためでは ありません。わたし自身も 職業上、「ひつよう」を あおることで 客を おどして めしを くっている にんげんです。

*4:その 「能力」が ないと さまざまな げんじつてきな 不利益を しいられる という いみで。

*5:ごらんの とおり、わたしは 「ひらがなだらけ」の 文章を かいているけれど、まだ 漢字を だいぶ つかっています。

*6:赤字で 強調したのは わたくしです。

*7:ここも 赤字にしたのは わたくしです。

*8:そもそも、「『にほんご』という 《言語》とは なにか?」「それは 単数形で あるいは 一定の 輪郭を もったものとして かたれるものなのだろうか?」という もんだいも ありますけれど。また、《言語》が 《表記》の 可能性を ある程度 制約・規定するのと どうじに、ぎゃくに《表記》が 《言語》の ありかたに 作用しているという 相互性も あるでしょう。しかし、とりあえず、《言語》が 《表記》に さきだってある、という みかたは できると おもいます。なぜなら、《表記》ぬきの 《言語》は かんがえられるけれど、《言語》ぬきの 《表記》などということは かんがえられないから。って これ だれか いっていたのを さいきん よんだような きが する……。