個室の《まど》

 8がつ31にちに かいた「公衆浴場」という 記事に 関連して、ここなんにちか かんがえていたことを すこしだけ。
 まえの 記事では、「ふろや」と 「じぶんちの ふろ」を 対比させながら、「プライベートな 空間を もちたい」という わたしたちの 欲望について、かんがえようと していました。ただ、わけて かんがえるべきところを ごっちゃに していたり、「ふろ」の たとえからは ひろげられないところまで はなしを おおきくしてしまったりと、いろいろ 不用意な 文章では ありました。
 また、なんにんかの かたから ご指摘いただいたのですが、プライベートな 空間の 価値を きってすててしまうような かんがえに あぶなっかしさ(というか 「やばさ」)が あるのも たしかでしょう。
 しかし、わたし自身の なかにも ふかく ねづいている その欲望の ありようを、きょりを とって ひはんてきに かんがえてみたい、ということも、さいきん おもうところであります。ただ、これについて ひとつの まとまった 文章を かくには、まだ いくつか ひつような かぎが たりていないようで、なんどか かきはじめてみたものの、どうも うまく いきません。とりあえず ここ 数日のあいだ かんがえたことを すこし かきます。

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 「たにんから みられない じぶんだけの ばしょや じかんを もちたい」というのは、おそらく わたしたちの おかれた とくしゅな 社会的・歴史的条件を こえた きほんてきな 《欲求》であるような きがします。どんな 社会や 時代に いきていても、にんげんは のどが かわくのであり、のみみずが 《ひつよう》です。おなじように、たにんから みられることのない ばしょと じかんを もつことも、にんげんの きほんてきな 《ひつよう》に かかわっているように おもいます。
 しかし その いっぽうで、わたしたちが 欲している 「プライベートな 空間」の イメージには、「みられたくない」という 《欲求》とは べつの なにかが あるような きもしています。
 じぶんの へやであれ、マイ・カーであれ、わたし(たち)が イメージする プライベート空間には そとを のぞきみるための 《まど》が ついています。わたし自身、ひとりぐらしを はじめた 19さいのとき、まず とりかかったのが、へやに リサイクルショップで かってきた テレビを おき、ほんや ざっしを かいあつめることでした。ほかの ひとは どうなのか しらないのですけど、わたしの 経験から いえば、「たにんから みられない」 ほぼ かんぜんな 個室を もつことで、「ほんや ざっしなどを ためこみたい」という 欲望が たかまるように おもいます。実家に すんでいたころ、わたしは おとうとと ひとつの へやを 共有していたのですが、当時は じぶんが よめる 以上の ほんを あつめる 習慣は ありませんでした。ひとりぐらしを することが、ほんや テレビといった、いわば せかいを のぞきみる 《まど》を じぶんの へやに おきたいという 欲望を かりたてたような きがするのです。いっぱんてきに いえることなのかどうか、わからないのですけど。
 個室の なかで、つまり せかいから じぶんを きりはなして かこわれた 空間から、そとの せかいを のぞきみる。いわば、じぶんしか いない へやから、じぶんの いない せかいを みている、ということ。このような にんしきの 操作を、わたしは すでに 身体化しており、とりたてて 意識せずに そのようにして せかいを みたり、ものを かたったり しております。じぶんの へやに いるのでは ないときでさえも。
 うまく いえないのですけど、こうした せかいとの かかわりかたには、なにか ぞっとするようなところが あります。ただ、いまの 時点では わたしが なにに ぞっとしているのか、また、わたし(たち)の 「個室」や 「プライベート空間」についての 《欲望》の ありようを えがきだすことが その「ぞっとする」なにかの 正体を みきわめるのに つながるのか、よく わかっていません。
 と まあ、ぜんぜん はっきりしない 文章で すみません。