ねこと みつめあって おもうこと

 ねこは にんげんの すがたを みても、すぐに にげないのですね。まず こっちを ジーッと みつめる。こっちも むこうを ジーッと みつめる。ねこと わたしは しばらく たちどまって みつめあう。
 そうしていても、ねこは わたしのほうに よってくるわけでは ありません。わたしは おもいます。「なあ、きみは どうしたいんだよ?」と。
 しかし、こうも おもいます。「わたしは どうしたいんだろう?」と。
 それで、わたしは「ちょっと ちょっかいだしてみようかしら」と いっぽ あしを ふみだします。ねこは サッと にげます。にげますけれど、きょりを とって まだ こちらを みつめていたりすることも あります。
 こんなときの ねこたちの きもちは どういうものなのでしょうか? とうぜん、「こわい」という きもちは あるでしょう。でも、こわいからといって さっさと にげてしまうわけでは ないのです。いざとなったら にげだせるように そなえつつも、あいてとの かかわりを もつことも 可能性として すてずに のこしておく。そんな かまえを とって、ねこは ジーッと こちらを みつめている。そんなふうに みえます。
 ねこたちも にんげんたちも なん千ねんもの あいだ、もしかすると なん万ねんもの あいだ、ずーっと ともに いきてきたわけです。その ながい ながい ときの あいだ、にんげんが ねこを いじめたり ころしたり することも たくさん あったでしょう。それでも、ねこたちは いっぽうでは にんげんを 警戒しながらも、にんげんの ひとりである わたしと ともだちとしての 関係を つくる 可能性を てばなさずに いてくれています。
 にんげんと ねこの 関係であれ、ねこと ねこ、にんげんと にんげんの 関係であれ、社会を つくりあげていく きそというのは、こういうところに みるべきでは ないか。そう わたしには おもえてなりません。