みんなして ガツガツ はたらくことも ないじゃないか

 sarutoraさんの 文章を よんで、さっき 電車の なかで ボケーッと かんがえていたことなど、つらつら かいてみます。


まあ、皆ほんとに労働しない(と思われている)人嫌いだよね - 猿゛虎゛日記(ざるどらにっき)


 sarutoraさんは、今村仁司(いまむら・ひとし)さんの ぎろんを ひきながら、「労働は大事だ」という かんがえかたは 「たった300年か400年前のヨーロッパで生まれて世界にひろまっていったものでしかない」のだということを、のべてらっしゃいます。
 こんにちの わたしたちの いしきには、せっせと はたらくことを しない ひと、なまけている(ように みえる) ひとを みると、「みんなに めいわくを かけている」だとか 「ぜんたいの あしを ひっぱっている」だとか みなしてしまうような ところが ありますね。こういうふうに なまけものを うとましく おもったり、ときには はらだたしく おもったりする 感情は、わたくしも ときに いだいてしまうことが なくは ありません。「あいつだけ さぼって、ずるいなあ」と。
 まあ、この ブログで たびたび かいているように、わたし自身 なまけものですので、わたしが ひとに たいして そういう 感情を いだくのに まして、たにんから 「ずるい」と おもわれていることの ほうが おおいに ちがいありません。
 さて、「せっせと はたらくことは よいことだ」「みんなで やるべき しごとを さぼるのは めいわくだ」という かんがえかたは、わたしの 実感に てらしあわせてみて ぜんぜん 「あたりまえ」じゃないように おもいます。それは がっこうなどで 《うえつけられた》ものなんですねえ。なぜか いまだに わたしの きおくに ふかく のこっている 小学6ねんのころの ある できごとを おもいかえしてみて、そう おもうのです。
 それは たしか 6がつのことでした。6ねんせい みんなで、がっこうの プールの おおそうじを したことが ありました。6ねんせい ぜんぶで 120にんくらい でしたか。そんな おおぜいの こどもたちが ひろい プールに ちらばって めいめいに 洗剤を かけては タワシで ゴシゴシやるわけです。とうぜん、せんせいたちによる 統率は 教室でのようには まんぞくに いきやしません。タワシを なげたり、みずを かけあったりして おおさわぎしている こどもたちも いれば、ボケーッと つったっていたり、てを うごかさずに おしゃべりを たのしんでたりする こどもたちも います。
 わたしは どうだったかと いえば、なかの よい ともだちと 3にんで、ゴシゴシ、ガツガツ そうじに はげんでおりました。とはいっても、「しごとに はげむことは よいことだ」「勤労は 美徳だ」なんて かんがえて しごとに いそしんでいたわけでは まったく ありませんでした。タワシで こすれば こするほど、ひどく きたなかった プールの かべが どんどん きれいに なっていくのが、ただ おもしろかったのです。その プールの よごれぐあいといったら、そりゃ もう ひどいものでした。こすっても こすっても、よごれが かんぺきには おちないのです。それで、ぼくたちは おおよそ 1メートル四方の じぶんの 領域を きめて そこだけ 徹底的に みがきあげる、という あそびを やってたわけです。プールぜんたいを きれいに することなんて、あんまり きょうみが なかった。ぜんたいとしては きたならしい プールのなかで、ぼくたちの みがいた 一画だけが みょうに キラキラと ひかりかがやいて うかびあがっている。ただたんに それが おもしろかったのです。
 しごとっていうのは、そんなふうに みんなが めいめい かってに うごいていても、まあ なんとか なるものなんですね。さいごには とりあえず つかえるくらいには プールが きれいに なっている。ほどほどに よごれを おとせば じゅうぶん プールとしての 用は なすんだし。120にん みんなが ガツガツ はたらく ひつようは なかったわけです。
 もっとも、競争に さらされていて きびしく 効率を もとめなければ 会社が いきのこれない、という 条件では、そんな のんびりしたことは やってられないのですけど。しかし、じぶんと なかまたちにとって ひつような ていどに しごとを しあげれば ことたりるというのであれば、さぼってる ひとが いたって、たほうで ほどほどに はたらいてるひとも でてくるので、ぜんたいとしては ちゃんと 帳尻が あうんじゃないか。そう おもいます。
 そもそも、さぼっている・なまけている(と みられる)ひとが しろい めで みられ、うしろゆびを さされ、あるいは どなられるような 環境で わたしたちが はたらかされていることこそが、むちゃくちゃなのです。さぼっているひとが いるということは、それだけ ぜんたいとして しごとに よゆうが あって、うまく いっているってことでしょう? もし、その よゆうが ちいさくなってきたら、それまで さぼっていた ひとも、「こりゃ たいへんだ。わたしも やったほうが いいかな」と かんがえて、しごとに 参加するように なりますよ。わたしたちには それくらいの 社会性は そなわってますよ。というか、「社会性が そなわっている」という いいかたは ちょっと やばいな。わたしたち ひとりひとりが 社会的にのみ くらしを なりたたせることが できるという、存在の 条件の なかに、そうした 行動を うながす エンジンが くみこまれていると いったほうが よいかもしれません。
 まあ、それでも はたらかないっていう ひとが いても いいと おもうけどね。はたらけないっていうことだって あるし。
 たにんが なまけてる(ように みえる)と つい ムカついてしまうのは、自分自身の そとがわの ちからによって 《はたらかされている》ことから くる 感情なんだと おもいます。ほんらい、わたしたちは 「じぶんと なかまたちにとって なにが どの ていど 《ひつよう》なのか?」を みきわめる、あるいは みずから きめる(自己決定する) ちからが あるでしょう。また、「その 《ひつよう》を みたすために どれくらいの しごとを しなければならないのか」も、だいたい わかるでしょうよ。そうであるなら、わざわざ そとがわから 強制しなくたって、それぞれの ひとが、なかまたちの はたらきぶりも よこめで みながら、じぶんたち ぜんたいの 《ひつよう》に おうじた はたらきかたを するはずです。なかまたちの はたらきぶりが さかんで 「じぶんが がんばらなくても ぜんたいとして なんとかなりそうだ」と おもえば、じぶんは さぼるでしょう。さぼっていいんです。それで なんとかなってるんだから。はんたいに、なかまたちの はたらきぶりが おもわしくなく 「じぶんが もうちょっと やらないと まずいかな」と おもえば、じぶんから はたらきだす ひとが おおくなるでしょう。
 ただし、このように うまく いくためには、わたしたち どうしが たがいに、平等・対等でなければ なりません。おたがいが 対等な たちばに あり、平等であることが だいじだと かんがえられている 関係においては、あいてが 重荷を せおって くるしそうに しているように みえたら、「じぶんも いっしょに(あるいは、じぶんが かわりに) せおいましょう」と もうしでることも あるでしょう。それは 「労働や 勤勉さ そのものの 価値」が どうのこうのってこととは、ぜんぜん 関係ないんですよ。はんたいに、たとえば、性別によって、それぞれの ひとにとっての やくわりが あらかじめ 不公平な かたちで 固定されているような 関係においては、じっさい 女性が 家事や こそだてを さぼれないわけです。あるいは、「びんぼうくじ」としか いいようのない しごと(職業)に つかざるをえない ひとも でてくるわけです。
 しかし、そのようにして こんにち 構造化されてしまっている 不公平というのは、「はたらかないで なまけている ふとどきものが いるから 生じている」のでは ないと おもいますよ。それは、「なまけもの」といった 《個人の》 うちにある 特質に ゆらいするのでは なくって、わたしたちの 《関係》の とりむすびかた そのものの 不公平に ゆらいしているように おもいます。ここらへんは あとで もっと つめて ちゃんと かんがえなきゃならないところだと おもいますけど。
 ところで、さっきの プールそうじの はなしには、とても いやな おもいでが あります。おおそうじが おわって 教室に もどると、せんせいが うでぐみを して おっかない かおを しているのでした。
「なんだ、あの ざまは! わーわー ふざけたりしてて、おまえら まじめに やってなかったじゃないか! ぜんぜん てを うごかさずに さぼってた ものも いた。」
 そんなふうに、クラス一同、おおめだまを くらったあと、せんせいは なんと こんなことを みんなに むかって いったのです。
「ただし、やねごんくんたちは コツコツと いっしょうけんめいに はたらいていたぞ。おまえたち、みてたか? さぼってる やつが いると、まじめに やってる ものが 損を するんだ!」
 そして、ぼくら 3にんは あろうことか、せんせいから まえに よばれ、「おまえたちは よくやった。とくべつに ごほうびだ」と いわれ、あめだまを ひとつずつ もらったのでした。
 わるい ゆめを みているようでした。こんな くつじょくは ありませんよ。みんなの みているまえで、権力者に ほめられ、ほうびを おしつけられるなどというのは、このうえない はずかしめです。しかも、そうやって わたしたちが ほめられたのは、せんせいにとって ほかの みんなを しかりとばすための ダシだったのですから。わたしは ひどく うしろめたい きもちに なったのでした。みんな ごめん。そんな つもりじゃ なかったんだよ……。

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 うえに かいてきたことの ほとんどは、じつは 数学者の 森毅(もり・つよし)さんが かつて あちこちで かいていたことの パクリです。さいきんでは もりさんは ひところほど よまれなくなったのかも しれませんけど、ほんとうに ステキな エッセイを かく ひとで、わたしの もっとも そんけいする かきての ひとりです。
 こういうことを いうと ごほんにんは 不本意に かんじるかも しれませんが、もりさんの 文章には アナーキストらしい にんげんへの 信頼と 希望が みちています。

 先日、ある中学校の教室へ入ったら、「みんなで掃除を」というので、こんなことが書いてあった。
 掃除をさぼった人は、そのぶんだけ他人の負担を重くし、それだけ他人の人権を侵害していることになるのです、だって。なんぼなんでも、おおげさすぎるよね。
 ずっと前のことだが、ぼくだって、ときに、さぼったことがあったろう。いや、たしかに、なかったはずがない。ぼくでない、だれかがさぼって、そのぶんをやったこともあったと思う。でも、おたがい、そんなことを、たいして気にはしなかった。
 さぼる人間が一人もいない学級、さぼる人間の存在を許さない学級、そんなものは少しおそろしい気がする。さぼったやつのぶんをやったって、この次に自分のさぼるときのために、さぼる権利を保有している、ぐらいのほうがぼくは好きだ。その、さぼる機会がなかったって、べつにどうということもない。
 だいたいに、学級であれなんであれ、一糸乱れず脱落者なく、なんて集団はおそろしい。きもちにゆとりがなくなり、ブレーキがきかなくなる。
 一見は、集団の足をひっぱるような人間が少しはいて、そして、なろうことなら、そうした人間が入れかわりながら、その全体として集団があるほうが、うまくいくものだ。いつの間にか、だれかがブレーキの役わりを果たして、それによって集団にはユトリが生まれる。
 少しの人間がさぼったところで、気まぐれに熱心な人間がいたりして、集団としてはバランスのとれるものだし、負担にしたって、一人平均にすれば小さなものだ。
 たしかに、さぼった人間がいると、そのぶんの負担がかかってくるには違いない。しかし、さぼりの許されない集団になるぐらいなら、その負担ぐらい小さいものだと思う。おれだって、いつかはさぼってもよいんだぞと、思っているその心のゆとりだけでも、そうした負担をかぶる価値がある。……
森毅「ケシカランというまえに」(『居なおりのすすめ』ちくま文庫)


 あらま。いま よみかえしてみたら、ほとんど まるごと パクリだったわ(笑)。うえの 文章を かいた あとに、ひさしぶりに ほんだなから ひっぱりだして よんだのですよ。うそじゃなくって。
 しらずしらずに、ふかく 影響されていたんだなあ。もりさんの 文章の うまさには、わたしなど あしもとにも およびませんけど。
 ま、たいせつな(と おもえる)ことは、なんども かたりなおされるべきなのだと おもいますですよ。あたまの なかに しまっておくだけでなく。



追記)
「公平さって なに?」ということを ブラックボックスに したまま かいちゃっているので、混乱した 文章に なってるかと おもいます。ちょっと かんがえていることは あるものの、これ すごい むずかしー もんだいのような きがしてます。