ろうやの そとは どうなっているのでしょうか?

 そとに でたことが ないので わからないのですが、わたしは なんとなく こう おもってきたのです。「そとの せかいは ろうやの なかにも まして おそろしいところなのだろう」と。
 さて、わたしは そとの せかいへの おそれによって ろうやに 「とじこめられている」のでしょうか? つまり、わたしは 囚人(とらわれびと)なのでしょうか?
 なるほど いっぽうで、わたしは ろうやに とらわれた 囚人と いえるかもしれません。しかし たほうでは、わたしは 看守(ろうやの ばんにん)でも あるのです。というのも、わたしは おなじ ろうやに とじこめられた なかまたちに 「ろうやの そとは おそろしいところらしいぞ」と ふいて まわっても いるからです。さすがに はっきりと そう くちに だして いうわけでは ありませんけれど、態度と ふるまいかたで たえず それを ほのめかしているのは たしかです。
 それどころか、「ろうやの そとの せかいが おそろしい」というイメージに 便乗することで、たにんとの あいだに 権力関係を うちたてる、ということさえ しています。そうやって 世わたりしているわけです。
 ろうやから ほうりだされる(解放される?) こわさに なみだする ひとが います(ときに わたしも その ひとりに なるでしょう)。いまの わたしには、ないている かれ/かのじょに 自信を もって かけられる ことばが ありません。「ろうやに ずっと いられるように、そして ろうやで もっと よい へやを あてがわれるように がんばろう!」なんて もう いいたくないのです。