憲法について(1)

まえがき

 せんじつ、あべさん(id:hituzinosanpo)と つねのさん(id:toled)の 放送*1を ききました。そこで つねのさんが 「憲法を真にうける会」というのを やるぞと おっしゃっていて、「おもしろそう!」と おもったんですけど、わたしは ひどく とろい 性質な ものでして、ざんねんなことに すぐに 反応できませんでした。
 法律について わたしは ドシロートなのですけど、ドシロートなりに 「憲法というものは きみょうなものだなあ」と きょうみを ひかれます。憲法は いっぽうで わたしの だいきらいな 国家を きそづけ その 権力に りんかくを あたえる 文書だと いえると おもいますが、たほうで 憲法を よむと 国民や 国家という わくを こえるような 理念を そこに かんじとることも できます。
 おもしろいことに、国家の 官僚機構は つねに 憲法に てを やいているように みえます。いかに 憲法を 「真に うけ」ることなく ごまかすか、その やりくちを かんがえるのが 役人さんたちの しごとの ひとつでは あるようです。市町村の 福祉事務所は、 憲法生存権保障の 条項を 「真に うけて」 生活保護の 申請に おとずれた ひとを、あれこれと りゆうを つけて おいかえす しごとに ひび いそしんでるようですし、オマワリさんは、ウソを こいてまで 「表現の 自由」を シカトしに かかります*2。 裁判所、とくに 最高裁判所の 裁判官たちは 「いかに 基本的人権の 規定を ほねぬきに する 判決文を かくか」ということに 知恵を しぼっているようで、まことに ごくろうなことと おもいます。
 よく いわれるように、憲法は 国家権力を おさえ、その はたらきを 限定する ちからを わたしたちに あたえます。それにしても、この 憲法の ちからは どこから やってくるのでしょうか。国家そのものが みずから 国家権力を 制限するとは かんがえにくいです。じゃあ、その ちからの ゆらいは どこに ある?
 日本国憲法は 前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し」と いっています。第12条では、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とも いっています。とすると、憲法が 国家権力を 制限しようとする 根拠は 「国民」に もとめられるべきなのでしょうか?
 ところが、日本国憲法の 前文は、うえに 引用したところの すぐ うしろで こうも いっております。「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」と。
 「人類普遍の原理」だってよ! 一国家の 憲法の ぶんざいで、なに この 自信たっぷりな たいどは?
 でも、たしかに 憲法には 「国家」や 「国民」の わくを こえて、「人類普遍の原理」を めざそうとする ひびきを ききとれるような きも するのです。おれさまは すでに 「人類普遍の原理」に「基(もとづ)」いてるんだぞとばかりに えらそうに ふんぞりかえってるだけじゃなく、意志として 「国民」を こえた 「人類普遍の原理」を めざそうとしているようにも みえる。
 憲法では ありませんが、「フランス人権宣言」の 前文は こう かたっています。

国民議会として構成されたフランス人民の代表者たちは、人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮し、人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した。この宣言が、社会全体のすべての構成員に絶えず示され、かれらの権利と義務を不断に想起させるように。立法権および執行権の行為が、すべての政治制度の目的とつねに比較されうることで一層尊重されるように。市民の要求が、以後、簡潔で争いの余地のない原理に基づくことによって、つねに憲法の維持と万人の幸福に向かうように。こうして、国民議会は、最高存在の前に、かつ、その庇護のもとに、人および市民の以下の諸権利を承認し、宣言する。


 さいしょの 文で、この かたりの 主体が 「国民議会として構成されたフランス人民の代表者たち」であることが しるされています。ところが、この かたり手が 提示する 対象は 「フランス人民」を とびこえています。それは 「人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利」であり、「市民」に 限定されない 「および市民」の 「諸権利」です。
 あとで のべるように、ざんねんなことに 日本国憲法においては、この点で フランス人権宣言に あった 理念が ほねぬきに されています。しかし、主権国家憲法なるものが うまれるところには、たしかに 「市民」「国民」を まとめあげる 原理とは べつの、「普遍」を めざす ちからが はたらいているように おもえるのです。それは どこから どのようにして おこる ちからなのだろうか?
 このことを これから じっくり かんがえてみたいと おもっています。とちゅうで あきたり ゆきずまったりしたら、やめますけど。
 とりあえず、その 準備として 酒井直樹(さかい・なおき)さんの 「国際社会のなかの日本国憲法」という 論文を よんでいきます。『死産される日本語・日本人』(1996年、新曜社)に おさめられています。論文の 初出は 1992年です。
 10年くらい まえに よんだのですが、ひさびさに よみなおしてみたら、たぶん 筆者の こめた 意図とは ズレまくると おもいますけれど、おもしろく よめました。
 なお、こんかいは その 論文に ふれずに、わたしにとって 日本国憲法の きにくわない点について ほざいてみます。2かいめの つぎの きじで ちょくせつ さかいさんの 論文を 引用しながら よんでいくという 作業を やるつもりです。

日本国憲法の きにくわんところ

 日本国憲法は わたしにとって きにくわんものです。天皇制の もんだいも ありますけれど、なにより けしからんのは、権利についての 規定が みょうに ちゅーとはんぱな 条項が いくつか あることです。
 たとえば、第11条。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 おなじように、第14条*3や 第15条*4でも 規定されているのは、「国民」の 権利であって、「人民」の それでは ありません。
 たほうで、請願権*5や 信教の 自由*6などの 権利は、「何人(なんびと)も」という ことばで さだめられています。
 つまり、「何人も……」というかたちで 権利を 規定している 条項が ある いっぽうで、いわば どくさに まぎれるような かっこうで 「国民は……」と 権利の 保障を わざわざ せまく 限定した 条項が ところどころに まじっている。そんなふうに わたしには みえます。
 天皇の 地位を さだめた 第1条についても、この 憲法において 「国民」なるものが どのようなものとして 構想されているのか、この点からこそ もんだいにされるべきだと おもいます。

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。


 いうまでもなく ひとつ もんだいなのは、天皇 国民統合の 象徴とされていることです。しかし、わたしが これにも まして きに いらないのは、「国民」が なんらかの 「象徴」によって 一元的に 統合されるべきものとして 構想されているところです。「統合」なんて しなくて いーじゃん。「国民」として 「統合」されることで わたしたちに どんな よいことが あるのか、さっぱり わかりません。そんなもの くそくらえでございます。


 あと、護憲派の かたがたには 9条の ファンが おおいようですね。たいがい 護憲の 主張とは、とくに 「9条を まもれ」ということのようです。
 わたしも 9条は すてきだと おもいます。ただ、「9条を のこすことが にほんの 国益に かなう」という りゆうからの 護憲の 主張には ぜんぜん さんせいできません。なぜなら わたしは 国益を 追求することに はんたいだからです。もし 9条が 国益に かなうというなら、いっそ 9条なんぞ なくしてしまったほうが マシだとすら おもいます。
 おなじように、「平和憲法は にほん(じん)の ほこりだ」あるいは 「にほん(じん)の 宝だ」とゆーようなことを いう いちぶの 護憲派の かんがえも だいきらいです。
 まえにも リンクし 引用させてもらったことが あるのですが、こちらで いわれているように「日本の『平和憲法』と韓国の『徴兵制』はワンセット」です。この ふたつは アメリカの 東アジア戦略のなかで うみおとされた ふたごであり、うらおもての かんけいに あります。にほんに うまれそだち、かつ にほんの 国籍を もつ わたしは へーたいに とられずに すんだわけですけれど、そのことと 韓国の 男性が 一定の 期間を 軍隊の なかで すごさなければならないことは ひとつらなりの ことがらと かんがえるべきでしょう。
 わたしは 軍隊も 軍隊的な 秩序も イヤだと おもうし、ひとと ころしあうのも、その 訓練を うけるのも ごめんこうむりたいです。しかし、そのことを じぶんの 「信条」「心情」として ほこれるかと いえば、ほこれません。わたしは そのような 「信条」「心情」を、これまで 「徴兵に おうじるのか、おうじないのか」といった かたちで げんじつてきに ためされることもなく、ただたんなる 「信条」「心情」として いだきつづけることが できましたし、また げんに こうやって たやすく かたることが できています。それを 可能に している 条件は、おそらく、たとえば つぎの 3つの ことがらの 要因と かさなるはずです。
 すなわち、韓国の 男性が へーたいに とられ、ときに 戦地に おくられてきたこと。また、ピョンヤンの 政府が アメリカ・韓国・にほんへの 対抗上 軍事独裁体制を とらざるを えなくなったこと。おきなわに アメリカ軍の 基地が 集中していること。
 いずれも、戦前の にほんの 植民地主義、および 戦後 にほん国家と 共犯関係を むすびながら 東アジアの 覇権を にぎってきた アメリカの 戦略から ひきおこされている 事態に ほかなりません。これらの 事態との 関係ぬきには、アメリカの 占領政策の なかで うみおとされ、また その 覇権の もとで いきながらえてきた にほんの 「平和憲法」を かんがえることは できないでしょう。「9条は にほんの ほこりです」「にほんの 国益に かないます」などと はじしらずなことは いえないよね、ということです。
 さて、これまで のべてきたのは、わたしにとって 日本国憲法の きに いらない ところについて、また てばなしでは 肯定できないところについてでした。ひとつには 「国民統合」くそくらえ、「国民」なんか ホワイ・ドンチュー・ジャスト・ファック・オフだ、ということ。もうひとつは、にほんという ひとつの くにの なかだけで、あるいは 「国民」という わくに とじこもって 「平和憲法」を かんがえるのは いみが ないということでした。
 では、 にもかかわらず、憲法が だいじだと かんがえるのだとすれば、それは どういうことなのか? この 観点から さかい・なおきさんの 「国際社会のなかの日本国憲法」を よんでいきます。わたしの こういう らんぼうな 文章に えらい 学者さんの 論文を つかうのは きが ひけるのですけど。
〈つづく(かもしれない)〉

*1:前半ぶぶんだけ こちらで きけるようです。

*2:http://d.hatena.ne.jp/tzetze/20090130/1233250966

*3:「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」

*4:「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である(第15条 第1項)」

*5:何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない(第16条)。

*6:「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない(第20条 第1項)。」