憲法について(2)

 ひとつまえの きじに ひきつづいて 憲法について かんがえてゆきます。
 なお、酒井直樹(さかい・なおきさん)の 「国際社会のなかの日本国憲法」を よんでいくと いったのですが、それは 次回に さきおくりします。この 論文は とても 重要で、わたしは なんども よみかえしながら ひとつまえの きじも こんかいの きじも かいております。
 ただ、さかいさんの 文章は わたしにとって なかなか むずかしいですし、そこでは 第9条を のぞいては、ぐたいてきに 憲法の 条文に 言及することなく ぎろんが なされています。なので、これを 消化するための 「準備作業」というか、「補助線を ひく 作業」を、わたしなりの ことばで おこなう ひつようが あると かんがえました。そういうわけで、こんかいは 「国民」の 平等を うたった 第14条を とりあげ、条文に ぐたいてきに そくして かんがえてみようと おもいます。


 前回 のべましたのは 日本国憲法の もつ 二重の せいかくについてでした。いっぽうで、憲法国民国家を きそづけるものとして ある。この そくめんが 日本国憲法において もっとも はっきり あらわれているのが、天皇の 地位を さだめた 第1条であると いえるのではないかと おもいます。しかし、たほうで それが きそづけようとする 「国民」や 「国家」の わくを こえてゆこうとする なにかが 憲法には あるように おもえる。
 前回の きじでは この ふたつめの せいかくについては あまり ふれませんでしたが、まず 「基本的人権」という かんがえかたに 「国民」と 「国家」の わくを こえでてゆく 契機が はらまれているということは たぶん いえるでしょう。もちろん、前回 のべたように 日本国憲法の 保障する 基本的人権とは 「国民」の それに すぎない(第11条)という点で まったく ふじゅうぶんな ものです。しかし、いったい 「基本的権」というものを 「国民」のみに かぎって 尊重するなどということが そもそも できるのでしょうか?
 たとえば、日本国憲法は 第14条で 法のもとの 平等、および 政治的・経済的・社会的関係において さべつされない 権利を さだめております。

すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。


 たしかに もじどおりに よむかぎりでは、ここに さだめられているのは、たんなる 「国民」の 権利に とどまります。しかし、ひとりの 国民が げんじつに この14条を 「まに うけ」て、これを つかおうと かんがえたとたん、この 条文じたいに はらまれている むじゅんに きづかざるを えない。というのは つまり こういうことです。この 国民が 「じぶんは さべつされている。平等に あつかわれていない」と ふまんを おぼえ、「憲法に 保障された 基本的人権が ないがしろに されている」と かんじたと しましょう。この時点では、かれ/かのじょは じぶんじしんを、憲法によって 人権の 保障されている 「国民」の そとがわに おいやられたものと、まずは かんじているはずです。「憲法によると 『すべて国民』は 平等に あつかわれるはずなのに、じぶんは その 『国民』の わくから つまはじきに されている」と。このように、憲法によって さべつを 告発するためには、いちどは じぶんじしんを 「国民」の そとがわに いちづけるという てつづきを とらざるを えません。たとえ、かれ/かのじょにとって それが 「不本意」に かんじられるのだとしても。
 日本国憲法第14条は この いみで 「外国人」を さべつすることを 禁止する 条項であり、「国民」のためのものでは ありません。
 さて、かれ/かのじょが みずからに たいする さべつの 不当性を うったえ、さいわいにも かれ/かのじょにとっての さべつが とりのぞかれたと しましょう。このとき、この ひとは 憲法上の 「国民」として はじめて 正当に あつかわれるように なったと いえます。
 しかし、この ひとりの 「国民」は、もはや 「外国人」である だれか たにんが げんに さべつを うけていることを みすごすわけには いかないはずです。なぜなら、それを みすごすことは、かつて その ひとが じぶんの うけた さべつを 「不当である」と 告発し、その 是正を うったえた こんきょそのものを 否認することに ほかならないからです。それは、じぶんが 武器として つかった 憲法を みずから ふみにじることであり、また じぶんじしんが かつて そうであったという いみで みずからの 「ルーツ」である 「外国人」を うらぎることで あります。
 こうして、日本国憲法第14条は 《述語が 主語を 否定する》という 構造に なっていることが あきらかに なったと おもいます。たしかに、この 条文が 「すべて国民は……」という 主語で はじまっているのは、フランス人権宣言などに みられる 普遍的人権概念を ほねぬきにするものでは あります。しかし、「法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という この 条文の 述語を 「まに うけ」て、げんじつの さべつを もんだいとして とりあげることを やめないかぎり、第14条は、「国民」に 権利を 限定することを 禁じる 条項として よむしかなくなるのでは ないでしょうか。
 おなじことは、この14条に かぎらず、基本的人権についての 条文すべてについて あてはまるのでは ないかと おもいます。「人権が ないがしろにされている」と こえを あげることは、日本国憲法基本的人権を 保障する 「国民」の そとがわから なされるよりほか ありません。いいかえるならば、基本的人権の 理念のなかには、「国民」といった 共同性を 「国民」じしんが うたがい ひはんすることを もとめるような しかけが うめこまれているということです。
 かりに 憲法が 「国民」ではなく、「人民は……」「にんげんは みな……」といった かたちで 人権を 保障していたとしても、原理的には おなじことが いえます*1憲法に のっとって 人権侵害を もんだいにしようとするならば、「国民」であれ 「人民」であれ 「にんげん」であれ、わたしたちは そこで 構想されている 共同性の そとがわに みを おくことに なる。なぜなら、人権侵害を もんだいとして とりあげることは、その 共同性が 現状において いつわりであることを いいつづけることに ほかならないから。
 日本国憲法は まったく 《ふじゅうぶんな 憲法》ですけど、その 《ふじゅうぶんな 憲法》でさえ、「国民」にたいして、「国民」である じぶんを 否定(「否認」ではなく)することを 要求しているものと よむことが できます。「たえず、『国民』という 共同性の そとに でる どりょくを つづけろ。人権侵害、すなわち 『国民』という みせかけの 共同性が おおいかくしている 不正義を ひはんせよ」と。
 そして、日本国憲法が 《ふじゅうぶんな 憲法》だと わたしが いうのは、現状において 「すでに じつげんされている」とされる 共同性の いつわりを ひはんし、そのことを とおして ひはんてきに しゃかいに かかわってゆこうとする 主体を、もっぱら 「国民」としてのみ 想定している点です。
〈つづく〉

*1:もちろん、だからといって 「国民」のものとして 基本的人権を 規定している いまの 日本国憲法でも じゅうぶんだ、などとは いえません。わたしが いおうとしているのは、いまの 日本国憲法は、人権という 理念が はらむはずの、したがって 憲法が そこに ゆらいするはずの 原則を 徹底しえていない、その点で 《ふじゅうぶんな 憲法》《いまだ 完成されていない 憲法》だということです。