ニセの せかいで

 なんかげつか まえに 町田康(まちだ・こう)さんの 『宿屋めぐり』を よみました。きおくが あいまいですが、おもいだしながら かきますと、たしか こんな はなしだったと おもいます。
 主人公の おとこは、かつて 「げんじつの せかい」に いたのだけれど、ひょんな きっかけから 「ニセの せかい」に まよいこみます。とはいっても それは、この ものがたりの 一人称の かたりてでもある かれが 「そう おもっている」ということに すぎません。じっさいのところ、かれの さまよっている せかいが、ほんとうに 「ニセの せかい」なのかどうか、かれじしんにも、また よみてにも たしかめようが ありません。「ひょっとすると、じぶんが ニセの せかいと おもっている いま いる せかいが、げんじつなのかも しれない」。主人公の あたまにも ときおり そんな うたがいが よぎったりもします。
 で、かれは その 「ニセの せかい」(と かれが おもっているところの せかい)に ありながらも、じぶんは ただしく いきようと します。ところが、かれは なんども なんども その 意思を うらぎる おこないを はからずも くりかえしてしまいます。ただしく ふるまおうとするのに、「ニセの せかい」の 住人を いじめたり、ころしたり してしまうのです。
 ところで、この さくひんは、さきに のべたように、「主人公=かたりて」の 一人称小説なのですけれど、すこし ねじれた かたりの 構造を しているように おもいます。この ものがたりを よんでいると、かたっているのが ほんとうに 主人公の 「わたし」なのかどうか、うたがわしくなってくるのです。
 主人公じしんの かたりには、「主」というのが 登場します。「主」とは、せかいの 創造主であり、主人公の おとこにとって やといぬしでもある。そんな 存在として えがかれています。
 で、主人公は かつて いた げんじつの せかいで、「主」より ひとつの 使命を うけております。その 使命とは 「主」から あずかった 大刀を 大権現(だいごんげん)に 奉納(ほうのう)するというもの。しかし、主人公は ニセの せかいに まよいこんでしまっている(と かれは おもっています)。したがって、かれが 大刀を 奉納するのに 成功したとしても、それは ニセの 大権現に 奉納することになるのではないか? ニセの せかいで ただしい おこないを することは 可能なのだろうか?
 主人公は いっぽうで そう なやむのですけど、かれが かつて げんじつの せかいに いたときに まぢかに せっした 「主」の ことばや ふるまいから、「ニセの せかい」での みずからの おこないを ふりかえり、それが ただしかったのかどうか、はんだんしようと します。
 このように、主人公でもあり、ものがたりの かたりてでもある かれに とって 「主」とは 倫理的な はんだんの こんきょとしての 神であります。しかも、この 「主」が どうじに 〈主人公=かたりて〉をも ふくんだ せかいを つくった 創造主でもあると いちづけられています。したがって、主人公の なした おこないは、かれじしんの 意思の 結果というよりも、創造主である 「主」の 意思の じつげんにすぎないとも いえてしまうわけです。
 そして これと おなじ りゆうから、主人公じしんが かたっているということに なっている、この ものがたりの ことばも、いったい だれの ものなのか、はっきりしなくなってくる。かれは じぶんの とるべき 行動や とってしまった 行動についての なやみ・葛藤を ぶつぶつと 自問自答するのですが、それは かれじしんが かったっているのか、それとも 「主」に かたらされているのか。いったい、この ものがたりの かたりては だれなのか、よんでいて わからなくなって しまうのです。
 ある いみで、この 主人公は 二重に じこぎまんを おかしていると いえそうです。ひとつは、かれが いま いるところの せかいを 「ニセの せかい」と にんしきすることで、せかいに たいする じぶんじしんの おこないを 「つみ」として とわれることからの にげみちを あらかじめ 用意しているということによって。もう ひとつには、じぶんの おこないを みずからの 意思ではなく、「主」の 意思によるものと みなすことによって*1
 まあ、おおよそ こんなような おはなしだったと おもいます。いや、こんな はなしでは ぜんぜん なかったようにも おもいます。なにしろ、よんだのが けっこう まえなのですし、いま こうして かいているときも、てもとに ほんを おいて いちいち たしかめるということは しておりません。もとの さくひんから おおきく ズレた 紹介に なってしまっているとすれば、それは わたしの つごうで わざと 誤読(あるいは、誤-再構成)しているということです。
 さて、さくひんの タイトルに 『宿屋めぐり』と あるとおり、主人公は やどやを めぐるわけです。「ニセの せかい」に あって やどやを めぐる。かれにとっては ゆく さきざきが どこも 「かりの やど」に すぎません。大権現に おさめるべき 大刀も たびの とちゅうで ぬすまれて、したがって たびの もくてきも みうしなわれてしまう。しかも、この 主人公は 「ニセの せかい」に まよいこむまえ、「げんじつの せかい」に いたころも、ふるさとに いられなくなり 諸国を さすらっていたのを 「主」に ひろわれたのだと いいますから、かえるべきところも ないのでしょう。
 かれにとって この せかいは 「ニセの せかい」であり、ねとまりするのは 「かりの やど」。どこに いっても げんじつの、そして じぶんの せかいとは おもえない。でも、かれは ふたりの じんぶつに であってしまいます。ひとりは、ほんらいは 主人公が するべき 「ただしい おこない」を 主人公に さきんじて やってしまい、そのことが もとで ころされてしまいます。もうひとりは、主人公を 親身になって たすけようとし、やはり ころされてしまいます。ふたりとも たしか やくにんに ころされたのだったと きおくします。「法」に もとづいて ころされたわけです。「ニセの せかい」の 「法」に もとづいて。
 主人公は けっかてきに ふたりとも みすてることに なってしまいます。いや、「けっかてきに」などというのは、この ばあい、せきにんのがれの あとづけで いわれることであって、かれは じぶんの 意思で ふたりを みすてたと いうしか ありません。かれは あれこれと 弁解の 自問自答を くりひろげるのですが、それは、かれは 「じぶんが みすてたのではないか」という うたがいを、いしきから ふりはらえないからでしょう。
 ものがたりが このさき どう 展開したのか、よく おぼえていません。かれが じぶんの おこないを あれこれ りゆうを つけて 正当化しようと することと、じぶんの つみを みずから とおうとすること、この ふたつの あいだを いったり きたりして なやんでいたように ぼんやり きおくしています。けっきょく かれが どうしたのか、しりませんけれど、想像するに、かれが じぶんの いる せかいを 「ニセの せかい」に すぎないと おもいつづけるのは むずかしくなったはずだと おもいます。
 これは なかなか しんどいことだと かんじます。いっぽうで、せかいは あいかわらず かれにとって 「じぶんの せかい」としては あらわれず、「ニセの せかい」でありつづけています。かれは 「かりの やど」ではない、せかいの なかの ばしょを 「まだ あたえられていない」とも いえるだろうし、あるいは 「まだ つくりだせていない」とも いえるかもしれません。いずれにせよ、当面 せかいは かれを よそものとして あつかい、かれは 「かりの やど」を めぐるしかない。
 しかし たほうで、かれは、「ただしい おこないを した」と かれじしんが みとめざるをえない ふたりの じんぶつを あいついで みすてたという 否定的な かたちにおいてであれ、このせかいに じぶんの 意思で かかわってしまった。その いみでは もはや この せかいが 「ニセの せかい」だと いいぬけることは できないでしょう。かれが ふたりを 「ただしい」と みとめざるをえなかった その 瞬間、かれは ふたりを ころした 「ただしくない げんじつの せかい」に むきあってしまう。それも ふたりを みごろしにした 当事者として。

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 ぶんげーひひょーの まねごとを やってみました(「ひひょー」なんて ぜんぜん してないけど)。こーゆー ぶんしょーは あとで よみかえすと すげー はずかしーもんです。
 ひとつまえの 憲法に ついての きじと ほぼ かさなる もんだいを かんがえてみたつもりでは あります。社会を 統合してゆこうとする 権力に 個々人が 適応するのとは ちがった かたちの 社会の 可能性みたいなのについて。
 なかなか うまく ぶんしょうに できないわ、くぅ〜。また こんど でなおします。




宿屋めぐり

宿屋めぐり

*1:なお、なんども いうように この ものがたりは 一人称で かたられるので、「主」は 主人公の いしきを とおしてのみ あらわれるわけです。「じつは 『主』なんて いうのは 主人公の いしきが つくりだした 幻想なのではないか?」と よみてが うたがわざるをえないように さくひんが くみたてられていると いえるような きが します。