「燃える!お兄さん」事件のことなど(1)

 こんにちでは 「にんげんを うまれや 出身地、職業などで さべつしては いけない」という かんがえかたは 常識として ひろく 共有されていると おもわれます。
 もちろん、わたしじしんを かえりみても、げんじつてきな ひびの ふるまいや 心情において さべつから じゆうであるとは とうてい いえないでしょう。しかし、価値観として 「さべつは よくない」とは かんがえてはいますので、げんじつてきな じぶんの ふるまいが さべつてきであることを たにんから 指摘されたり、じぶんじしんで きづいたときに、「はずかしい」と かんじます。
 わたしだけでなく、ほとんどの ひとが たにんから 「さべつ主義者」と みられるのを かなり ふゆかいに かんじると おもわれます。それは 「にんげんを うまれや 出身地、職業などで さべつしては いけない」という かんがえかたが 価値観として いちおうは 共有されているからでしょう。
 ところが、このように うまれや 職業などで ひとを みくだすことが 「よくない」と かんがえられているのならば、なぜ てんのうや こうぞくの ひとらに とくべつな 敬語が へーきで つかわれるのでしょう? 
 放送や 出版でも そうですよね。テレビ局や 雑誌社は、ばんぐみや きじが、たとえば「ぶらく さべつ」と うけとられないよう かなり きを つかってると おもわれますけど、てんのうたちには へいきで 敬語を つかってます。これ ありえなくない?
 家系(いえがら)などといったものを もちだして ひとを みくだすことが 「はずかしい」ならば、てんのうたちに とくべつな 敬語を つかったり、「へーか」「でんか」みたいな これまた とくべつな 尊称を つけて よんだりするのも、かなり みっともなく はずかしいことじゃないんでしょうか? だって それは 「じぶんは 家系・うまれによる さべつを 容認しますよ」と いってるに ひとしいのだから。
 ひとを みくだすことを もんだいにするならば、てんのうを 「みあげる」ことも もんだいに されなければならないでしょう。




 さて、1990ねんに 「燃える!お兄さん」という マンガ(『週刊少年ジャンプ』れんさい)の さべつ表現が もんだいに なったことが ありました。
 ことの 経緯は、自治労学校用務員部会の サイトの、以下の ページに くわしいです。


漫画「燃えるお兄さん」事件


 もんだいの さくひんも うえの ページに PDFファイルで リンクされているので、よんでみました。事件のことは 当時 報道されたので しってましたが、じっさいに さくひんを よんだのは はじめてです。
 学校用務員と その しごと内容にたいする ぶべつ・へんけんが あからさまに あらわれており、かなり ひどいと おもいました。と どうじに、この 事件の あった 1990ねんと、20ねん ちかくを へた 2009ねんの あいだで、事態が どれほど 改善されただろうか、ということも おもったりも しました。
 この 件が ろうどうくみあいの 抗議によって もんだいとして とりあげられることで、さべつによって きずつく ひとたちの すがたが ひとつ 可視化された。そのことの いみは、むろん おおきいと おもいます。
 れいの さくひんが 編集部の チェックを へながらも そのまま 掲載されてしまったということ。そのことが いみするのは、さくひんの 表現によって きずつく ひとが いるということが、作者や 編集者は もとより、おそらく しゃかいの おおくの ひとに みえていなかったということでしょう。
 それが さべつを うけてきた ひとの 抗議の こえによって わたしたちに すこし みえるようになったことは、もちろん じゅうようだと おもいます。
 しかし、もんだいは、じっさいもんだいとして 用務員という 職業の 地位が 向上したのかということに なるでしょう。
 ただ、ここで わたしは かんがえこんで しまいます。「ある 職業や、その 職業に ついている ひとたちの 地位が 向上する」とは どういうことなのだろうか、と。
 さきの サイトの 管理人の かたは、ごじしんの しごとへの ほこりと、しかし しごとを りゆうに ひとから みくだされた 体験が あるということを のべたうえで、つぎのように かいています。


http://www5e.biglobe.ne.jp/~youmuinn/07jikosyoukai.html

そんな中で考えたことは、学校用務員に対する世間の見方と、実際に自分がやっている仕事のギャップでした。
自分は自負を持って仕事をしているけれども、世の中では「用務員室でお茶を飲んでいる」「がっこうの鍵を開けたり閉めたりしている」「たまに玄関の辺りを掃除している」程度のか簡単で楽な仕事しかしていない、という評価でした。


 じゅうような しごとを しているけれども、その しごとの じゅうようさが せけんで ひろく りかいされていない。「職業の 地位向上」と いったとき、だから、その しごとの 意義を せけんに むけて つたえていくことが、ひとつの だいじな 課題になるでしょう。
 しかし、わたしが かんがえこんで しまうのは、どうして さべつされる がわのみが こうして 「みずからの しごとの じゅうようさを せけんに むかって せつめいする」(また、ばあいによっては、「じぶんじしんに むかって いいきかせる」) ふたんを おわなければ ならないのかという ことです。
 いっぽうで、教師は なんか 「えらい」ということに なってますので、とりたてて じぶんの しごとの 意義・じゅうようさを かんがえたり かたったりする ひつようが ありません。

 では、なぜ 教師は えらそうに していられるのでしょうか? わたしは そこを もんだいにする ひつようが あると おもうのです。
 さいしょに リンクした ページには、集英社週刊少年ジャンプ』編集部による おわびも のっています。

 小社発行「週刊少年ジャンプ」第45号(10月22日号、10月9日発売)に掲載した「燃える!お兄さんサイボーグ用務員さんの巻」は、学校現業職員 (学校用務員)さんの仕事を教師の仕事より低く描き、当作品全体が、明らかに差別と偏見そのものでした*1


 学校用務員の しごとが ひくく みられるとは、「教師の仕事より」ひくく みられるということですね。つまり、《用務員と その しごとが ひくく みられること》と、《教師が えらそうに していられること》は ひとつらなりの ことがらだ、ということです*2
 だから、わたしとしては、ひくく みられてきた 用務員という 職業の 地位向上を はかることは、教師を その 地位から ひきずりおろすことを あわせて おこなわなければ、かなわないのではないかと おもうのです。うまれによる さべつを なくしていくためには、てんのうを ひきずりおろすことが ひつようであるように。
 どうして 教師が えらそうに してられるのか、まず そこが もんだいです。そこから かんがえて みたいと おもいます。


 ながくなったので、つづきは こんど かきます。

*1:強調は 引用者。

*2:いま 引用した 編集部の おわびに おいて、「学校現業職員 (学校用務員)さん」には 「さん」という 敬称が つけられていることも このことと かんれんするように おもいます。その いっぽうで 、「教師さん」とは よばれないわけです。「教師」は わざわざ 「さん」づけに しなくても 「えらい」ってことに なってる。そーゆーことなのでしょう。