「じぶんの ただしさを うたがわない ひとは こわいですね」

 「じぶんが 正義だと しんじこんでいる ひとは こわい」。あるいは、「じぶんの 無謬性*1を うたがわない やつらほど タチが わるいものは ない」。
 こうゆーよーな いいかたって、よく なされますよね。「ただしさ」「正義」という ことばで なにかを 主張すると、しばしば こういった いいかたで たたかれます。ほとんど もんぎりがたの きまりもんく、ひどく ありふれた 定型文と いって よいと おもいます。
 たにんの 意見や 行為を ひはんしようと する ばあい、じぶんの がわに 「正義」が あると とりあえずは かんがえるのは とうぜんのことです。だから、そういう ひとに むかって 「きみの 主張は 正義ではない」と いうなら ともかく、そうではなくって 「おまえは じぶんが 正義だと しんじこんでいる、けしからん!」などと いっても、なにごとかを いったことには ならないと おもうのですが。でも、じっさい よく いわれるのよね。
 まあ たしかに、「なにが 正義で、なにが 不正義か?」ということを じぶんで はんだんしようとする ひとを 「こわい」とか 「きけんだ」とか かんじる 感覚は、わからなくは ありません。そういう ひとは、違法行為について 「それは 正義だ」あるいは「不正義ではない」と 主張したり、ほうりつに のっとって しゅくしゅくと おこなわれている 行為*2を 「不正義だ」と ひなんしたり するでしょう。それどころか、ほうりつに のっとらない 「実力行使」を じぶんの かんがえる「正義」を じつげんするための 手段として 肯定するかもしれない。って、わたしは この ブログで くりかえし そういうことを のべてきて、はんぱつされたり、あきれられたりしてきたのですけどね。
 しかし、わたしが 「こわい」「きけん」と かんじるのは、これと はんたいに、「ただしさ」の はんだんを じぶんの 意思の 外部の なにか(ほうりつなど)へと あずけてしまうことです。ここ 1ねんぐらいに かぎっての ことですけど、わたしは そんなことを なんどか かいてきたように おもいます(その おもな ぶんしょうは、この きじの さいごに リンクして おきますので、ものずきで たいくつを もてあましている かたは よんでみて ください)。
 「ただしさの はんだんを 外部に あずける」とは、たとえば、ほうりつや きまりを こうじつにして 不正義を みすごしたり、または みずから 不正義を おこなうということです。「きまりだから しかたがない」と。
 あるいは、ほうりつ・きまりとは べつに、「上司の めいれいだから」「じぶんや かぞくが めしを くっていくためには やらざるを えないから」という こうじつで おこなわれる 不正義も あるでしょう。
 で、不正義というのは*3、わたしが おもいますに、たいてい 「しかたがない」「やむをえない」という いいわけを つけながら おこなわれます。じっさい、それは たしかに たいがい 「しかたがない」「やむをえない」事情を ふくんでいると いえなくも ないものなのですね*4
 だから、じぶんが 不正義を はたらいているという にんしきを じぶんの いしきから うちけしたいならば、「きまりだから しかたがない」「しごとなのだから やむをえない」と じぶんに いいきかせれば いいわけです。というか、わたしじしんが これまで そうしてきたし、いまも そうして いきているわけです。
 おそらく、ここに 「正義の ひとは こわい」という 感覚が ゆらいするのだろうと おもいます。じぶんの おこない、あるいは じぶんが 加担している 構造が 「不正義」を ふくんでいることを わたしたちは しっている。しっているからこそ、それは いしきの おくそこへと よくあつされなければ ならない。ところが、正義を となえ、あるいは 不正義を 告発する ひとは、そうやって よくあつしたはずの 「不正義」の 感覚を よびさまして しまいます。だから、「正義の ひとは こわい」と かんじられてしまうのでは ないでしょうか?
 わたしたちは おたがいに 監視しあって いるわけです。おなじ しゃかいの メンバーが あやまって ただしい みちに まよいこむことが ないように。隣人が 「正義」を いいだすことが 警戒されてしまう。
 もんだいは、「なにが 正義か?」の はんだんが むずかしいことではなく、そういった はんだんが さけられてしまうという しくみに あるのではないか、と おもいます。





*1:「むびゅうせい」と よむそうです。「あやまちを おかさないこと」というような いみだそうです。

*2:死刑執行など。

*3:いきなり こういうふうな 主語で かたりはじめると、先験的に「なにが 正義で、なにが 不正義なのか」規定されていると かんがえるほど おまえは ナイーブなのか、という ぎもんを いだく ひとも いるかと おもいます。でも、なにが 不正義と よぶに あたいするかは、たいていの ばあい 自明です。自明じゃないと おもうひとは、つぎの きじを よんでください。本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない - 過ぎ去ろうとしない過去

*4:もっとも、「しかたがない」事情を 「しかたがなく」しているのは、わたしたち にんげんに ほかならないのだから、わたしたちの 意思と 行為で それを 「しかたがない 事情」でなくすることは できるはずなのですが。