「警戒を 強化しています」

 えきを あるいて おりましたら、電光掲示板に こんな かんじの メッセージが ながれてました(きおくを たよりに かいているので、この とおりの もんくでは なかったかも)。

JR東日本では 駅構内・車内の警戒を強化しています。不審物を見かけましたら、駅係員まで お知らせください。


 これを みて わたしは どうも いやだな という かんじを うけました。ぶきみというか、なんとなく こわいというか。
 こうした 警戒強化の アナウンスが、たとえば「サミット」のような 口実を つけること なしに ながされるようになったのは いつごろからでしょうか? 「サミットの ために 警戒を 強化しています」などと わざわざ ことわられることも なく、フツーに あたりまえの かおで、警戒態勢が しかれている。なにを 警戒しているのか、また なぜ 警戒が ひつようなのか、せつめいされませんけれど、わたしたち 通行人は かれらが なにかを 警戒している(らしい)ことを にちじょうの まちの 光景として なんとなく うけいれてしまっているように おもいます。
 それにしても、うえの アナウンスは 《だれに》 むかって、また《なにを》つたえようと しているのでしょうか?
 ひとつ かんがえられるのは、《なにか わるだくらみを している もの》(「テロリスト」などと よぶのでしょうか)に むかって その わるだくらみを おもいとどまるよう かたりかけているのではないか、ということです。「われわれは 警戒を 強化しているぞ。おまえたちの おもいどおりには させないぞ」と 「テロリスト」だか なんだか しりませんけど、とにかく 「わるい やつ」に おどしを かけているのではないか ということ。
 でも、この かのうせいは あまり ありそうに ないですね。だって、警戒を 強化している 時期を アナウンスするのは、うらを かえせば、警戒の てうすな 「テロ」の 好機を 「わるい やつ」に おしえてしまうことでも あるのですから。
 だから さきの アナウンスは 「ぜんりょーな じゅうみん」(と じぶんのことを にんしきしている ひとたち)に むけられていると かんがえて よいでしょう。
 じゃあ、JRの 警備担当だか けいさつだか しりませんけど、かれらは 「駅構内・車内の警戒を強化しています」と いうことによって、「ぜんりょーな じゅうみん」たちに いったい 《なにを》つたえようと しているのでしょうか?
 この メッセージの ないようは 「みなさん ちゅういしてくださいよ」と 警戒を うながすものではなく、「わたしたちは みなさんの ために 警戒を 強化しているのです」という ものだと いえます。だから、この アナウンスによって わたしたち 「ぜんりょーな じゅうみん」は*1 とりたてて ふあんや きょうふを あおられるわけではない。じっさい、「警戒強化」なんていう ものものしい ことばが アナウンスされるなか、わたしたち つうこうにんは とくべつな きんちょうかんを もつことも なく、ふだんどおりの にちじょうを おくっているわけです。
 さきの 電光掲示板の アナウンスが つたえるのは、まず、でんしゃや えきに「わるい やつ」が ひそんでいる(かもしれない)という メッセージです。つまり、警戒を ひつようとする 状況が あるということ。そして、その 警戒に あたる 任務にある じぶんたちに 正当性が あるということを いっている。
 わたしたち 「ぜんりょーな じゅうみん」は これを なんとなく うけいれてしまっている。すこし おおげさな いいかたかも しれませんが、いわば、権力に 承認を あたえている。
 権力*2が、ふあんや きょうふを あおり、つくりだすことで、「ぜんりょーな じゅうみん」(と じぶんのことを にんしきしている ひとたち)からの 承認・支持を うけとろうとするということが、ひとつ あると おもいます。もちろん、そういった 現象は こんにちでも あちらこちらに みられます。
 しかし くだんの アナウンスには そういった ふあん・きょうふを あおるという プロセスが 欠けているような きが します。というか、「ショートカットされている」という いいかたを したら よいかも しれません。ふあんとか きょうふとかの 感情を 経由することすらなく、ただ なんとなく 権力が 承認される。でも、その 権力が 《なにに たいして》警戒態勢を とっているのか、わたしたち 「ぜんりょーな じゅうみん」は 関心を もっていない。つまり、暴力としての 権力が どこで どのように、また だれに たいして ふるわれるのか、まったく 想定していないのだけど、権力が 警戒態勢を とっていることを ただ なんとなく 承認している。わたしたち「ぜんりょーな じゅうみん」は、「警戒態勢」を とる 権力を、「かれらが 警戒態勢を とっているのだから、じっさい 警戒態勢を とる ひつようが あるのだろう」というぐらいの りゆうで、ただ だらしなく 承認してしまっている。
 なんか ぶきみさの 正体は うまく つかめないのですけど、ともかく、「警戒態勢」が アナウンスされる ものものしさが いっぽうに あって、しかし それが 「ものものしさ」と かんじられずに にちじょうの 風景に とけこみつつあるように かんじられて、それが どうも わたしには いやなのでした。

*1:じぶんが 「ぜんりょーな じゅうみん」であるという にんしきを うたがわずに すむかぎりにおいて

*2:ここでは、この ことばを 「ぶつりてきな ぼうりょくを ふるう 権限」ぐらいの いみで つかっています。