こくご はいしろん じょせつ

 「かんじは いらない」と しゅちょうしますと、しばしば、「いや、《にほんごにとって》 かんじは ふかけつなのだ」という かたちの はんろんを うけます。こうして、「かんじを つかわない 《にほんごは》 かのうなのか どうか?」といったところが ろんてんに なってしまうわけです。
 しかし、じつは ひらがなーきすと(ひらがなアナーキスト)にとっては 《にほんごに おいて》 かんじが どんな やくわりを はたしている(いない)のか、なんて ことは、だい1の もんだいでは ありません。というのも、ひらがなーきすとには、もっと もっと おっそろしーい いんぼうが あるからです。その いんぼうとは なにか? こっそり ばくろしちゃいましょう。
 それは ずばり、「こくご」としての にほんごを はいしすることです。このためには もちろん こくご・きょういくの はいしが ひつようです。
 「きみの ことばづかいは にほんご(こくご)として おかしい」「ただしい にほんごとは……」「にほんごにとって……」「ここは にほんなのだから にほんごを はなすのが あたりまえだ」。そういう おせっきょうや めいれいは もう たくさんです。いっぽうの ひとが ことばの きはんを おしつける。もう いっぽうの ひとは じぶんの かく(はなす) ことばが その きはんに のっとっているか どうか、ふあんを いだかされる。
 こういった けんりょく・かんけいを さいせいさん(再生産)する よういんの ひとつとして はたらいているのが、かんじ・かなまじりという 「こくご」の きわめて ふくざつな かきあらわしかたでは ないでしょうか?
 なぜ、こんな ふくざつな かきあらわしかたが なされるかと いえば、ひとつには つぎのような ことが あるのだろうと わたしは おもっています。

 《おしえる−おそわる》という かんけいが 成立するためには、まず、おそわる がわに なんらかの 不足・欠如の 自覚が なければ なりません。「じぶんに なんらかの ちしき・ぎじゅつが たりない」と 自覚するからこそ、それを おぎなうために たにんから おそわろうと するわけです。
 じぶんに たりないものを たにんの ちからを かりて おぎなっていく。それが もし じゆうに、また おたがいに 対等な かんけいに おいて おこなわれるならば、すばらしいことだと おもいます。
 ところが、《おしえる−おそわる》という かんけいを 維持すること そのものが もくてきに なってしまている ばめんというのが、すくなからず そんざいします。つまり、「なんらかの 不足・欠如を おぎなうために、《おしえる−おそわる》かんけいを むすぶ」というのでは なく、はんたいに 「《おしえる−おそわる》かんけいを 維持するために、おそわる がわに 『不足・欠如』の 感覚を うえつけなければ ならない」という さかだちした 状況です。
 がっこうという 施設は、きほんてきに そうやって 運営されていると いえるのでは ないでしょうか?
 たとえば、よみかきの のうりょくについて いえば、まず「よみかきが できないと 生活していくのに さしさわりが でてくる」という 状況が つくりだされることで、わざわざ がっこうに かよう メリット*1が 生じるわけです。
 で、その よみかきの のうりょくが、いかにも かんたんに みにつく ように みえてしまっては、がっこうが こどもたちを 10ねん以上に わたって つなぎとめて おくことは できません。だから、がっこうの きょうしは 「よみかきを みにつけることが たいへんに こんなんで、どりょくを ひつようとすることなのだ」ということを せいとたちに しめし つづけなければ なりません。
 そのためには、ぶんしょうの かきあらわしかたの ルールを ひつよう以上に ややこしく してしまえば よいですね。おびただしい かずの 漢字と 熟語を おぼえることなしに よめない ぶんしょうばかりを 流通させ、また はなしことばでは つかわないような 熟語を つかって かかないと 「まともな ぶんしょう」として みなされないのだという 強迫観念を あたえることです。つまり、がっこうに かよって がんばって べんきょうしないと、ひつような よみかきの のうりょくが みにつかないように、あるいは すくなくとも そう 「みえる」ように すれば よいわけです。
 こんにち かんじ・かなまじりで かかれている ぶんしょうは ひらがなと カタカナだけで(あるいは ローマじだけで) つづれます。だから、ひらがなと カタカナだけ おぼえ、さらに ちょっとした 表記の ルール(テン・マルの うちかたなど)さえ みにつけてしまえば、ぶんしょうを かくことは いちおう できるはずです。
 ところが、表記の ルール・きはんが ややこしいものに され、また おびただしい かずの 漢字や 熟語が みにつけるべきだと されることで、きょうしは せいとにたいし 10ねん以上に わたって ダメだしを しつづけることが できるように なります。「字が まちがってる」とか、「正規の 表現でない」とか、ひとの ぶんしょうに なんくせを つけることが できるわけです。ここにおいては、「かける」はずのものが 「かけない」ことに されてしまっている。
 いま、こうして よみかきを れいに とって のべてきましたが、がっこうという 施設が 運営されてゆくに あたっては、おなじような しかけが、おそらく いたるところに しくまれているのではないかと おもいます。


 ばっすいしたのは、ひとつき ほど まえに、ブログに アップする つもりで かいたのだけれども、さいごまで かききれずに ボツに した ぶんしょうの いちぶぶんです。ここで のべたような きょうしと せいとの あいだに みられるのと おなじような けんりょく・かんけいは、がっこうの そとでも 「こくご」「にほんご」を めぐって あちこちで はたらいているように おもいます。それは かきことばに おいて とくに はなはだしいようにも みえますけれど、はなしことばにおいても おそらく おなじことが してきできるのではないかとも おもいます。
 もうけられた 「こくご」の きはんに あっているか どうかに よって、かたられる ことばの かちが ひょうかされるというのは、かんじょうてきな いいかたに なりますけど、とっても いやです。ふゆかいです。くやしいことです。そうした ひょうかを おそれずに すむ ひとは じしん まんまんに おおきな こえで かたるでしょうが、たほうで ひょうかへの ふあんから ことばを のみこんでいる ひとも いるはずなのです。
 ひらがなーきすとは、かきことばに おいて そういった ふあんを ひとに いだかせる しくみの いちぶと なっている、ふくざつな かんじ・かなまじりの かきあらわしかたを もんだいに します。もうすこし 正確に いえば、それが 「こくご」の きはんと なっていること(かんじ・かなまじりの かきかただけが 「まとも」と みなされていること)を もんだいに します。だからこそ、ひらがなーきすとは かんじを できるだけ つかわない かきことばを めざすのであって、かんじは もんだいの いちぶに すぎません。わたしたちが はいししようと しているのは 「かんじ」というよりも、「こくご」であり、ほろぼそうとしているのは 「こくご」としての にほんごです。そして、その さきに わたしたちが みている もくひょうは ひとと ひととが びょうどうな かんけいを むすべる、アナーキーな(しはいの ない) しゃかいです。

こんご かんがえたいと ばくぜんと おもってる もんだい

 あかんぼうが おとなから ことばを みに つけていく 過程が そうであるように、たにんから ことばを まなぶとき その あいてとの あいだには ぬきがたく ふびょうどうな かんけいが ある。そして わたしたちが たにんから まなぶことなくして ことばを みに つけられないし つかうことが できない いじょう、ひとと ひとが ことばを やりとりする ばめんは ふびょうどうな かんけいに きそづけられていると いえるかもしれない。にもかかわらず、わたしたち アナーキストは びょうどうな かんけいを めざしている。これは いったい どういうことなのだろうか?*2 また いかにして そんなことが かのうなのだろうか?*3
 というのが ひとつ。もっとも、そこまで かんがえなくても、「こくご」としての にほんご、および こくご・きょういくの はいしは、たぶん じゅうぶんに しゅちょうできるのだけれども。
 もうひとつ かんがえたいのは 「こくご(および こくご・きょういく)を はいししましょう」と いったときに よそうされる はんろんについて。まあ、「そんなことを したら にほんの くにの なかで ことばが つうじなくなってしまって こまるだろうが」という はんろんは あるでしょうね。しかし、その ばあいの 「つうじる」とは いったい どういうことなのだろう? いまげんざい 「にほんご」が 「こくご」として にほん ぜんこくで 「つうようしている」のだという いいぶんを かりに みとめるとして、その 「つうようしている」とは どう 「つうようしている」ことなのか? そして、その ひろく(?)「つうようしている」ということを ほんとうに てばなしで 肯定して よいものなのか?

*1:というか、「がっこうに かよわないことの デメリット」?

*2:「めざすべきか べきでないか」は もんだいに ならない。げんに わたしたちは それを 「めざしている」のだから。

*3:「かのうか かのうでないか」は もんだいに ならない。げんに わたしたちは それを 「めざしている」のだから。