「11にんめ」を めぐる ふあん

 ラカン的な大文字の「他者」が存在不可能であるのと同様に、社会は全体性が不可能であることとしてのみ存立可能である*1


 にんずうを かぞえるという こうい(行為)には、その かぞえる ひと じしんを ふあんに させる なにかが あるように おもいます。
 「ひとり、ふたり、さんにん……」と その ばに いる ひとの にんずうを かぞえるとき、わたしは ひとり ひとりの かおなどを みながら、もじどおり 「あたまかず」を かぞえてゆく わけですが、そうやって かぞえている わたし じしんの 「あたま」を わたしは みることが できません。つまり、わたしは、わたし じしんが ぞくしている その ばの しゅうだんを、「ぜんたいせい(全体性)」として ちょくせつ しや(視野)に おさめることは できないという ことです。その いみで、じぶん じしんを ふくむ しゅうだんの 「ぜんたいせい」とは、そうぞうりょく(想像力)によって フィクションとして こうちく(構築)されるほか ないものと いえます。そして、こうして 「にんずうを かぞえる」という こうい(行為)を とおして こうちくされるのは ひとつの とじられた 「ぜんたいせい」であるという ことも いえます。
 さて、そのように 「わたし」の ぞくする 「わたしたち」の しゅうだんを にんしきとして こうちくするとき、「わたし」は ぶんれつしなければ なりません。「ひとり、ふたり……」と あたまかずを かぞえている 《わたし》と、そうして かぞえられ かんじょう(勘定)に いれられる 《わたし》との あいだで、「わたし」は ゆらぐことに なります。
 このために、にんずうを かぞえるという こういには、なにか ゆうれいの ような、かげの ような ものに つきまとわれている、そんなふうな ふあんが つきまとうのでは ないかという きが します。
 わたし じしんは 「わたしたち」の あたまかずの なかに はいっているだろうか? かぞえおとしてたら たいへんだ! ちゃんと わたしを にんずうに いれないと……。しかし、あせって ひとり よぶんに かぞえたり してないか? わたし じしんを 2かい カウントしてたとしたら、ひとりぶん ひきざんしなきゃ……。
 おそらく、「ぜんたいせい」としての 「わたしたち」の なかに 「わたし」を かんぜんに きぞく(帰属)させることは、げんりてきに ふかのうなのでは ないでしょうか? 「わたし」は かならず 「わたしたち」から はみでてしまう。しかし、その はみでるという ことこそが、「わたし」の もつ しゃかいせい(社会性)、すなわち たしゃ(他者)と であうことを かのうにする じょうけんなのでは ないだろうか?




 はぎお・もと(萩尾望都)さんの 『11人いる!』を よんで かんじられる ぶきみさは、しゅうだんの 「ぜんたいせい」を とじられたものとして こうちくしようと するときに つきまとう、「わたし」の ぶんれつ・ゆらぎと かんけいしているのでは ないかと おもいます。
 ものがたりの ぶたいは、すでに つかわれなくなって すてられた、うちゅうくうかんを ただよう うちゅうせん(宇宙船)の なか。ここで、うちゅうせんの のりくみいん(乗組員)を そだてる うちゅうだいがく(宇宙大学)に にゅうがくするための さいしゅう(最終)テストが おこなわれることに なって います。
 あらかじめ じゅけんせいたちは だいがくから、つぎの ふたつの せつめいを うけます。この テストが うちゅうせん のりくみいんとしての きょうちょうせい(協調性)を ためす もくてきで おこなわれること、また うちゅうせんには 10にんの じゅけんせいが おくりこまれること。ところが、じっさいに うちゅうせんに のりこんで にんずうを かぞえてみると、なぜか メンバーが せつめいより ひとり おおい 11にん いることが わかります。
 で、ふねの なかで トラブルが おきるたびに、メンバーたちは 「まぎれこんでいる 『11にんめ』は いったい だれなのか?」と ふあんに かられ、いわば いたんしゃ(異端者)さがしを はじめます。
 「だれが 11にんめなのか?」という 「もんだい」は、ものがたりの けつまつにおいて、あっけない かたちで 「かいけつ」されて しまい、わたしは ちょっと ひょうしぬけして しまったのですが、のりくみいんたちが 「11にんめ」さがしに かりたてられていく いくつかの ばめんは よんでいて ぞっとしました。
 「11にんめ」の うたがいを しばしば かけられるのは、タダという テレパスの しょうねんです。かれは うちゅうせんに のりこむこと じたいが はじめてな はずなのに、なぜか ふねの ないぶの こうぞう(構造)を しりつくして いるかのように、けがを した メンバーを はこぶ たんか(担架)の おさめられた ばしょや しれいしつ(司令室)の いちを ちょっかんてき(直感的)に いいあてて しまいます。こうした かれの こうどうが、ほかの メンバーたちから 「11にんめ」では ないのかと うたがわれる きっかけにも なるのですが、タダは タダで じぶん いがいの だれかが 「11にんめ」だと かんがえ、その だれとは しれない「11にんめ」の そんざいに ふあんを いだいています。
 かれは コンピュータの しゅうりを している さいちゅう、あやまって でんげんの スイッチを いれてしまい、いっしょに さぎょうしていた のりくみいんを かんでん(感電)させ けがを おわせて しまいます。タダが この ミスを おかしたのは、スイッチを いれるようにと しじ(指示)する こえを きいた(ように かれには かんじられた)からです。タダは、ふねに まぎれこんでいる 「11にんめ」とは、じぶんと おなじ テレパスなのでは ないかと かんがえます。その 「11にんめ」が テレパシーを つうじて はたらきかけてきて じぶんの ミスを さそったのでは ないか、と。
 タダは こうして じぶんの きいた こえを だれか ほかの テレパスの こえだと かんがえるのですが、それが じつは タダ ほんにんの こえなのだとしたら? かれは じぶんの うちなる こえを 「11にんめ」の こえと さっかくしているだけで、ほんとうは 「11にんめ」なんて いないのでは ないだろうか? 「11にんめ」とは、かれ じしんや、ほかの メンバーたちが、じぶんの ふあんを がいぶに うつしだした かげのような もの、ゆうれいのような ものなのでは ないだろうか?*2
 にんずうを かぞえようと すること、つまり とじられた 「ぜんたい」として じぶんを ふくんだ しゅうだんを にんしきしようと することにおいて、「わたし」は まるで いすとりゲームみたく、じぶんの いちを めぐる あらそいに ほうりこまれたような ふあんに とらわれます。いすは ひとつ たりない。だれか 「よぶんな ひとり」が まぎれこんで いるはずだ。それが わたしでないと すれば、そいつは だれだ? 11にんめを さがせ!
 こうして みずからの うちなる ふあんが、「よぶん」としての 「11にんめ」に てんか(転嫁)される*3 のは、げんしょう(現象)としては、あちこちで かんさつできると おもいます。わたしが かんがえたいのは その メカニズムです。その メカニズムを あきらかに するには、わたしが この ぶんしょうを とおして こだわってきた 「にんずうを かぞえる」という こうい(行為)に ちゃくもくするだけでは ぜんぜん じゅうぶんでは ないでしょうけど。




 ところで、さきに かいたとおり、『11人いる!』の ものがたりの さいごで、「だれが 11にんめなのか?」という 「もんだい」には いちおうの 「こたえ」が あたえられます。わたしは そのことに 「ひょうしぬけした」と かきましたけれど、ものがたりの おわりかたとして これ いがいに ありえなかったのでは ないかという きも します。
 それよりも、この ものがたりの 「かいけつ」に さきだつ ある ばめんが わたしには すてきだと かんじられました。「11にんめ」では ないかという うたがいを かけられていた タダが、ほかの メンバーたちの てに よって ついに かんきん(監禁)されそうに なったとき、かつて タダの ミスによって けがを おわされた ガンガという じんぶつが タダの みがわりを かってでようと します。ガンガは 「11にんめ」では ないのですが、じぶんが 「11にんめ」であると なのりでて、タダの かわりに いけにえの ひつじの やくを みずから かってでようと します。
 ところが、その ちゃばんげきは フロルという メンバーによって いっしゅう(一蹴)されます。フロルは ものがたり ぜんたいを とおして しゅびいっかんして 「だれが 11にんめなのか」という 「もんだい」に とんちゃくせずに ふるまう ゆいいつの じんぶつとして えがかれていました。フロルは タダや ガンガたちに むかって こう いいはなちます。

まーったく…!
タダも ガンガも てめえらも いいかげんに しろよ!


11にんめが どうしたよ!
そいつは なんの やくにも たたんじゃんか
11にんめなんざ いないんだよ!
……
へたな かばいっこ しないでさ!


みんな いっしょで いいじゃんか!
さっさと ばくはつぶつ はずそうぜ!*4


 えいゆうてき(英雄的)な いけにえ*5として 「11にんめ」が ふねの のりくみいんたち(および、さくひんの よみてである わたしたち)に ささげられるという ストーリーは、こうして さくしゃの てに よって めいかくに しりぞけられています。わたしには そのことが とても このましく かんじられました。





かんれん きじ

 かんれんするかも しれないし、あるいは あんまり かんれんしないのかも しれないのですけど、まえに かいた わたしの ぶんしょうに リンクを はっておきます。
「多数派/少数派」という認識を構築するのはなにか?

 ベネディクト・アンダーソンの『比較の亡霊』を つかいながら、こくみんこっかにおいて 「にんずうを かぞえること」(人口調査) および 「こっきょうせんを ひいて りょういきを とじること」の いみを かんがえてみた ぶんしょうです。


11人いる! (小学館文庫)

11人いる! (小学館文庫)

*1:酒井直樹(さかい・なおき)『日本思想という問題――翻訳と主体』189ページ asin:4000017357

*2:ここでの わたしの よみは、ものがたりの けつまつにおける 「かいけつ」 から さかのぼって かんがえるなら、「まちがい」なのですが。

*3:「転位」という ことばで ひょうげんして いいのかしら?

*4:105ページ。なお、いんように あたっては かんじ ひょうき(漢字表記)を ひらがなに あらためました。

*5:えいがばん『ナウシカ』の しゅじんこうのような。