「アンチ・ファシズム」が ファシズムに おちて ゆきませんように

 「OTAKU OF ANTIFA !」*1 たちあげの しゅうかいに さんか された エクストラレポートさんの レポートを よんで、かんじた ことを つらつら かいて みようと おもいます。


5月5日、「OTAKU OF ANTIFA !」胎動集会 出席レポ - エクストラレポート・ルーム


 まず、こうして、にほん しゃかいの がいこくじん はいじょ、じんしゅ さべつに はんたいして ゆこう という こころざしを もった ひとたちが あつまり、かつどうを はじめられて いる ことに、けいい(敬意)を ひょうしたいと おもいます。
 また、ここで しょうかい されて いる はつげんの なかには、わたしと しても、きょうかん(共感)を おぼえる ものも あった ことを、はじめに のべて おきます。

 従来のカウンターでは、「在特会や主権回復が何か始めた」→「そこへ行って対抗しよう」という発想に終始するものだったけど、「OTAKU OF ANTIFA !」においてはその前提を覆す。
 在特会への「喧嘩」よりも、排外主義に反対できる言葉や人の「場を構築」する事こそが課題となる。
「僕は本当はチキンなんですよ。やっぱり、在特会の暴力性とか、怖いんですよ」*2


 むろん、「ざいとくかい」などに ちょくせつ むきあって たいこう する アクションの いぎは ひてい できないとして、しかし そういう アクションが マッチョな ものを ひつようと して しまうとしたら、やはり それは もんだいが あるよなあと おもいます。
 ただ、この レポートに しょうかい されて いる はつげんには、しょうじき くびを かしげずには いられない ものも ありました。

 続けてたていしさんから、今までの反在特会の動きや言説への回答として「右でも左でもない“アンチファシスト”」としての表明がありました。
 平たく言えば、今までの反在特会の声に(賛否含めて)大きな存在感を持つ「反・日の丸」は反排外主義の声として蛇足だという事、そして、特に左派が遠ざける事の多かった「フリーチベット」「北朝鮮民主化」などへの人権・人道上の活動への支持と理解を持ちたいという意思を語られました。
イデオロギーではなく、シンプルに虐殺や人権弾圧は良くないと言い切れる運動にして行きたい」


 ひのまるに ついては とりあえず おくとして*3、ちょっと みすごせないのは、「特に左派が遠ざける事の多かった『フリーチベット』『北朝鮮民主化』などへの人権・人道上の活動への支持と理解を持ちたい」という くだりです。
 まず、よく わからないのは、なぜ ここで とうとつにも 「フリーチベット」「きたちょうせん みんしゅか」という はなしが でてくるのか、という ことです。ひのまるに はんたい する ことが はいがいしゅぎに はんたい する うえで よけいだと する いっぽうで、いったい どういう りくつで 「フリーチベット」「きたちょうせん みんしゅか」のための かつどうへの しじと りかいは よけいで ないと いえるのでしょうか? はいがいしゅぎに はんたいするなら、それこそ 「シンプルに」ただ はいがいしゅぎに はんたい すると いえば よいだけの はなしでは ないでしょうか?
 わたしが あやうさを かんじるのは、この たていしさんの(として しょうかい されて いる)はつげんに、とりわけ 「きたちょうせん」を いわば スケープゴートに する ことで、うんどうへの さんせい・きょうかんを ひろく あつめよう という いし(意思)が はたらいて いる ように おもえるからです。いらぬ しんぱいだと おっしゃるなら、それに こした ことは ないのですけれど。


 うえに いんよう した はつげんに、「みぎでも ひだりでも ない“アンチファシスト”」という ことばが あります。しかし、ちょうせん みんしゅしゅぎ じんみん きょうわこく(いか 「きょうわこく」と ひょうき します)や ちゅうごくの 「きょうい(脅威)」や 「じんけん もんだい」を こうじつ(口実)に して じんしゅてき・みんぞくてき へんけんを あおるのは、「みぎ」の ひとたちの いつもながらの やりくちです。
 いや、きょうわこくや ちゅうごくへの てきたい いしきと みくだした かんじょうは、いまや ひろく にほん こくみんに きょうゆう されて おり、 「さよく」や「リベラル」を なのる ひとの なかにも、そうした いしき・かんじょうを はずかしげも なく だだもれに してる ひとは すくなくないようです。その いみでは、「きたちょうせん」を ダシに して 「にほんじん」として まとまったり、「にほんじん」である ことに あんしんを おぼえたり する ことが、もはや この くにの こくみんの 「みぎでも ひだりでも ない」いっぱんてきな ナショナリズムの ありようだと いえるのかも しれません。
 いずれにせよ、このような 「みぎ」ないし それ じたいが さべつと へんけんに みちた よろん(世論)に おもねる こと。その ほかに、はいがいしゅぎに はんたい する という しゅしから いえば、ひつぜんせいが あるとは おもえない「フリーチベット」や 「きたちょうせん みんしゅか」を あえて もちだす ことの りゆうは、かんがえられない ように おもいます。ほかに なにか りゆうが あるのなら、おしえて いただきたい ものです。


 ねんの ために きほんてきな ことを 2つ してき して おきます。
 まず、「きたちょうせんの きょうい」などと いう ものは*4、こだいもうそう(誇大妄想)に すぎない という こと。にほん(および、アメリカ がっしゅうこく)は、あっとうてきな ぐんじりょくで きょうわこくを いかく(威嚇)して いる うえに、にほんは きょうわこくへの けいざい せいさいと、ざいにち ちょうせんじんの みんぞく だんたいへの だんあつを くりかえし おこなって おります。これらは いずれも 「きたちょうせんの きょうい」を こうじつに して おこなわれて いますが、それは こっけいな ほどに ねじれた にんしきで、きょうわこくに とっての にほんこそが 「きょうい」と いうべきでしょう。


 また、「イデオロギーではなく、シンプルに ぎゃくさつや じんけん だんあつは よくないと いいきれる うんどうに して ゆきたい」と いいますが、じぶん じしんの しゃかいてきな たちば・いちを ふりかえって みるなら、「イデオロギーではなく、シンプルに」それを いう ことなど ふかのうだ という こと。
 「きたちょうせんの みんしゅか」は、まず だれよりも きょうわこくの ひとびと、あるいは ちょうせんじんたちに よってこそ になわれるべき ことがらでしょう。たていしさんは さきの レポによると、そうした かつどうへの 「しじと りかいを もちたい」と はつげんされて いる ようです。でも、「しじと りかい」は こちらがわの いっぽうてきな おもわくで おこなわれるべき ものでは ないでしょう。かってな おもわくで おこなわれるなら、それは たんに とうじしゃたちの 「みんしゅか」への いしと のうりょくを かるんじた パターナリスティックな かいにゅう、よくて せいぜい「よけいな おせっかい」にしか ならないと おもいます。
 わたしたちの 「しじと りかい」が とうじしゃたちに とって かんげい される ものに なりうる ためには、まだまだ クリアしなければ ならない じょうけんが あるのでは ないでしょうか? その じょうけんとは、にほんの かこの しょくみんちしゅぎを はんせいし こくふくする こと、そして いまなお つづいて いる ざいにち ちょうせんじんへの はいじょと どうかしゅぎ(同化主義)に てっていてきに はんたい する こと、きょうわこくへの てきたい せいさく(敵対政策)を すぐさま やめ、ゆうこうてきで たいとう(対等)な かんけいを つくり あげる ために どりょくすることだと、わたしは かんがえて います。
 そうした じょうけんに むきあわずに、「きたちょうせんの みんしゅか」への 「しじと りかい」を かだいに ふくめる ことは、イデオロギーから じゆうな わけでは まったく なく、それ じたいが ひとつの せいじてきな せんたく(選択)に ほかならないでしょう。つまり、たていしさんは にほん(じん)に よる じんけん しんがいを とわない ことと セットで、「きたちょうせんの みんしゅか」への 「しじと りかい」を えらんで いる わけです。
 ようするに わたしの かんがえは、「きたちょうせんの みんしゅか」などと いう まえに、にほんを こそ みんしゅか し、まともに じんけんを そんちょう する くにに かえて ゆく ことに とりくんだら どうですか、という ものです。

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 さて、ここから さきで のべる ことは、いう ひつようが ない ことと いえば、まあ そうかも しれません。
 やはり、たていしさんの ものとして しょうかい されて いる はつげんの いくつかに ついて、ちょっと きに なった ことを かきますが、むしろ それは わたしの もんだいとして ときどき かんがえて いる ことがらであります。したがって、たていしさんの はつげんに たいする ちょくせつてきな ひはんを おこなう つもりでは なく、わたし じしんを ふりかえった ときに、おもいあたる ことを かいて いるのだと おもって ください。
 レポを よんでて きに なったのは、たていしさんの ことばの なかに、いわば 「いろつき(色つき)と みられたくない」という よっきゅうを かんじる かしょが いくつか あった ことです。さきに いんようした 「みぎでも ひだりでも ない……」という くだりも そうです。
 ほかに、たとえば、つぎの ような くだり。

「私なんてね、ギャルゲとコスプレ、お祭り騒ぎの好きなただのオタクです」
「もしこのOTAKU OF ANTIFA ! にイデオロギーアイデンティティがあるとすれば、それは右でも左でもない。ただのオタクだって事なんです」


 「オタク」というのは、ひとを みくだす ための、いうならば たにんを 「いろつきの」そんざいと みなす カテゴリー・レッテルとして つくりだされた ものだと おもうし、いまもって そうした つかわれかたを していると わたしは りかい してますけど、そこに 「ただの」と つける ことの ふくみに きょうみを ひかれました。むろん、「オタク」として いきて きた たていしさんの、わたしなどには そうぞうできない ふくみ というか ニュアンスが こめられて いるのでは ないかと おもわれますが、「みぎでも ひだりでも ない」という ことばと ともに、「ただの……」という ことばで じぶん じしんの むしょく とうめいさを しめそうと する ふるまいが、すこし きには なりました。

 これ[対外活動]を考える上でたていしさんの印象に残っているのは、これまた2009年4月11日の蕨でのカウンター参加者逮捕だったとの事。
 その事件へのネットでの反応は「どっちもどっち」「左右のデムパ合戦」という冷淡なものだった事も併せて。ネットでのその論調が肯定できるものかどうかとは別に、これを黙らせようとしたらやはり「在特会と同じ事をしない」というのが大事となって来る。
 つまり、「在特会の暴力性に暴力性で対抗しない」という基本を持つ事。


 「ざいとくかいの ぼうりょくせいに ぼうりょくせいで たいこう しない」というのは、わかります。けれど、よく わからないのは、その りゆうづけに なぜ ネットでの 「どっちも どっち」「さゆうの デムパ がっせん」といった ろんちょうを 「だまらせ」る ため という はなしが でて くるんだろうか、という ことです。
 「ぼうりょくせいに ぼうりょくせいで たいこう しない」の りゆうは、たんに「ぼうりょくが きらいだから」で じゅうぶんじゃ ないのでしょうか? あるいは、さいしょに いんようした たていしさんの ことばに ある ように、「ぼくは ほんとうは チキン」だから と いえば、たりるのでは ないでしょうか?
 わたしは といえば、たにんの ぼうりょくせいが こわいし、また そうした たにんへの おびえが じぶん じしんの ぼうりょくせい・こうげきせいに つながって いると かんじる ことが あって それも こわい。だから、「ぼうりょくせいに ぼうりょくせいで たいこう」する ことには なるべく しんちょうで ありたいなあと おもってますが、それは まわりから 「さゆうの デムパ がっせん」と みられたくない という よっきゅうとは ぜんぜん べつの はなしでは ないかと おもいます。


 もちろん、たにんが どのように じこ きてい(自己規定)するか という ことに ついて、わたしが とやかく いえる ことじゃないし、いう つもりも ありません。とくに 「いろつきとは みられたくない」というのは、わたし じしん そういう ところが あるし、「いろつき」と みられる ことが この しゃかいで せいかつを いとなむ うえで いろいろと しんどいのも たしかで。だから 「わたしは みぎでも ひだりでも ない、ただの ○○ですよ」と じぶんの むしょく とうめいさを アピールしようと ふるまって しまう ことを ひていは できません。
 ただ、こじん(個人)としてなら ともかく、そしき・しゅうだんとして、「われわれは いろつきでは ない」という じこ きていを つうじて まとまり、また それを そとに むかっても アピールするのは、ちょっと あやうい かんじが します。というのも、それは 「いろつき」を はいじょし(=はいがいしゅぎ)、また どうじに 「むしょく とうめい」である ことを しいようと する(=どうかしゅぎ/同化主義) 「せけん」に――というのは、とりもなおさず 「わたしたち じしんが つくりだして いる せけん」と いうべきですが――おもねり、うんどう じたいが その さべつに かたんする という ことに くずれ おちて ゆく ことに なりかねないと おもわれるからです。
 こうした けねんも あわせて かんがえた とき、やはり 「『ちょうせん みんしゅか』などへの じんけん・じんどうじょうの かつどうへの しじと りかいを もちたい」という はつげんは、わたしには とうてい こうてい できません。それは 「きたちょうせん」を スケープゴートに したてあげる ことで つくりだされて いる こんにちの にほん ナショナリズムに おもねって、じぶんたちへの しじと りかいを ひろげようと している ように みえて しまうのです。そうで なければ よいのですけど。

*1:オフィシャル・ブログは、こちら

*2:この「 」の なかは、たていしさんの はつげん。

*3:ひのまるに ついての わたしの かんがえは、ちょうど 1ねん ほど まえに「ひのまると うんこ」という きじで かいた とおりです。

*4:こういった ことばが、エクストラレポートさんの レポには でて くる わけでは ありませんが。