ジェフ・ベックのギター(前編)


 ロックンロールとそのギター・ヒーローにまったく興味のない人の目に、ギター小僧の姿はどう映っていたのだろうか。ロックのコンサートでギタリストの手もとを凝視しているギター小僧、オーディオから流れる音に合わせてギターを弾くまねをせずにいられないギター小僧。
 あるいは、ギター小僧がそのまま中年になったかのようなアルフィーの高見沢氏やB'zの松本氏が、体をくねらせ、顔までつくってソロをとる姿はどう見られているのだろうか。「あらあら、自己陶酔しちゃって、キモイねえ」などと思われてはいないだろうか。「まあ、あんたはいてもいいんだけど、正直どうでもいいんだよね、わたし稲葉さんを見に来たんだから」ってなもんだろうか。
 ほんと、どう思われているんだろう。心配だ。


 もしかりに、純粋に音を楽しむことを趣味とする人がいるとすれば、その人からみて、速弾きなどのいわゆる奏法上の「テク」やギタリストのオーバー・アクションを模倣せんと目を凝らすギター小僧の熱気は、不純なものにみえるのかもしれない。
 ギター小僧は、フロアにいながらにしてステージ上のギタリストに自己投影し、その目線から聴衆を見ている。かれにとってギタリストは理想の自己像を投影する鏡だ。「将来は音楽で身をたてる」というような人生設計を多少なりとも思い描く、というところまでいかないにせよである。
 子どもが特撮ヒーローにあこがれる(って古いか……)ようなものでもあるが、「ギター・ヒーローになる自分」というのは妙に現実感がある。3万円もあれば安物のギターとアンプを買いそろえられるということもあるし、バンドを組む仲間がみつかれば、学園祭のステージなりライブ・ハウスなり、演奏の場は用意されている。ロック産業というか音楽産業は、聴衆が受け身の聴衆でいられなくなるような欲望が喚起されるしくみのなかで回っているということも、きっとあるんだろうという気がする。
 しかも、特撮ものの戦隊ごっこなどであれば、同年代の仲間の成長とともに新たな移行対象が見いだされるのに対し、ギターを弾くことは1人でも続けるし、ロック中毒者にとってロックを聴くこと自体をやめるのはありえない(ような気がするけど、そうでもないのかしら)。青年の夢には出口がみつかりにくい。


 ふんぎりをつけるきっかけ(たとえば、家業を継ぐとか、子どもができたとか)をつかめずに、いたずらに続く「夢みる青年期」は、ちょっとした悪夢でもある。
 私が例にあげたギター小僧は、まだのどかだった時代に生きていた、いまやほとんど絶滅した種であるかもしれない。しかし、ギター小僧がかつてみた夢は、より広範に、また薄められて私の目にするあちらこちらを覆っている感じがする。


 ここまでが前ふりで、本題はジェフ・ベック様のはずだったのだが、だいぶ話がそれて収拾がつかなくなったので、また次回に。