「曲」の「終わり」


 ギター弾いてて楽しいなと思うのは、同じパターンを延々と続けることである。ワン・コード、もしくは2〜4つのコードからなる循環コードを約束事にして、ダラダラとジャム・セッションをばやる。アドリブと手癖にまかせて好き勝手に弾く。
 でも、しばらくそんな機会ともごぶさたなので、自宅でかわりにCDをかけて、そこに参加するんですよ。クライ遊びですね。CDの音に合わせて、好みのバッキングを試したり、勝手にソロを入れたりしてすごす。あっという間に二時間三時間が去っていく。
 かけっぱなしにするのに、古いブルースのCDは最適です。たいがいの曲は、スリー・コード、いわゆるブルース進行といわれるパターン。あるいは、Happy Mondays や中後期の The Clash なんかの循環コードの曲にあわせてギター弾いて酔うわけですよ。ひとり陶酔。
 疲れはてて飽きるまで弾く。楽しいのねん。反復するごとに前とずれていく。ずれていくのだけど反復である。


 太古の昔に音の遊びを始めた人たちは、「曲」をどう「終わらせる」かということは、考えなかったんだろうと思われる。「曲」という単位を、対象化して俯瞰し、「全体」としての構成を考える、つまりは設計するという思想がなければ、「始まり」や「終わり」という発想はありようがないのだから。ネアンデルタール人に知り合いはいないので、なんとも言えないのであるが。
 一方、西洋クラシックを起源とする現代のポピュラー・ミュージックは、「曲」として商品化するために「終わり」を考えなければならないわけですね。それは、ブルースであれ、トラッド・ミュージックであれ、あるいはそこに自覚的に「回帰」しようと試みたようにもみえる The ClashThe Rolling Stones のようなバンドの音楽であれ。
 というか、ポピュラー・ミュージックというのは、一方で「始まり」から「終わり」にいたる設計の思想をもちつつ、他方で終わりなき円環的な志向を内包するというややこしい姿をしている。それは、単純な循環コードの曲にしても、反対にヘヴィメタルのような綿密に構成された音楽にしても、多かれ少なかれ抱え込まざるをえない矛盾のように思う。


 この矛盾の表面化を最小限にとどめるには、2つの対照的な方法があるのだろうと思う。ひとつは、「終わり」においてカタルシスを与えること。最高潮に盛り上げておいて、ズドーンと落とす。もうひとつは、徐々にテンションを下げていって、ゆっくりと日常へと着地させてやること。フェイドアウトはその典型。
 いずれにしても、聴く者は音楽の果てた世界に放り出される。そして音楽の外側から過ぎ去った音楽を思うのだ。「恨めしや〜」と。私たちはそのとき亡霊なのだよ。アンコールをしつこくせがむ群衆なのだよ。


 なんてことを書いてはみたのだけど。うーん。
 音楽において「後味がよい」とか「余韻をたのしむ」というのは、どういうことなのかなあ。音が鳴っているさなかでの快楽と、音が鳴りやんだときの快楽と、別種のものとしてあるのかもしれない、という気がしないでもない。とすると、それは両立するんだろうか。
 また、音が鳴りやんだときに感じる快楽が、音の鳴りやんだことの快楽なのだとしたら、どうしてそれは快楽たりえるのだろうか。すばらしい演奏が終わったとき、なぜ私たち聴衆は拍手するのか。すばらしい演奏が終わってしまったというのに。終わりを期待していたかのように。祭りの後に満足はあるのか。だってそれは後の祭りじゃないか。
 考えると眠れない。悩みはつきない。われながらアホな悩みだが。