MANIC STREET PREACHERS / From Despair To Where(前編)

 このバンドの James Dean Bradfield という人は、たいへんにすぐれた作曲家であると思う。こう言うと、きっと異論のある人もあろうが、私はことこれにかぎっては、異論を受けつけるつもりがない。彼はじつにじつに「よい曲」を書くのである。
 こう書くと、ふん、ある曲が「よい曲」かどうかなんて、個人的な趣味の問題じゃねえか、と思われるむきもあるかもしれない。「聴く者がよいと思えばよい、よくないと思えばよくない、そういうものだ」というようなことを言う人がある。このような見方が私にはどうも気にくわない。それは、価値の問題に対して見て見ぬふりをしているだけだと考えるからである。
 もし、その人がつぎのように考えるならば、それはそれで立派な態度だと思う。すなわち、音楽において価値の優劣など言うことができないのであって、そこに「よい」とか「わるい」とかの価値判断をもちこむこと自体がナンセンスなのだと。「よい音楽」も「わるい音楽」もない、ただ音楽があるだけだと。これならば、私はその立場を共有しないけれど、ひとつのとりうる態度として納得できる。
 ところが、曲のよしあしなんぞ個人の趣味の問題にすぎぬと言う人は、価値判断そのものの不可能を言うのではなく、価値の相対性を言っているのである。しかるに、私の理解では、相対性とはある種の絶対性を念頭に置かなければこれを言えないのであって、すなわち相対主義の立場はなんらかの絶対性への信頼に補完されることで可能になるものである。たとえば、人間がつまらぬものとして相対化されるのは、神や仏の絶対性を認めることにおいてなのである。「神仏の前では、人間なんぞミミズやオケラにくらべて特別にすぐれた存在ではないのだぞ、おごるではないぞ」と。
 私は信心深い方ではないけれども、神や仏といった絶対性を根拠に衆生の相対性を言うのであれば、なかばこれに納得できるところもある。しかし、曲の価値の相対性を言う人は、神仏のようなものの絶対性を念頭においているわけではない。かの人が絶対化しているのは、「個々人の趣味」にほかならない。いや、「個々人の趣味」というより、むしろ「ボクの趣味」である。「ボクがよいと思えばよい曲なのだよ」と。「キミがよいと思ったのなら、それはキミにとってよい曲なのでしょうね。それは認めてあげるから、ボクがよいと思った曲は、ボクにとってよい曲だということなんだからねっ!」ということなのである。「ボクの趣味」にたいする絶対的かつ全的な肯定。
 もっとも、他人がそう考えることに対して私が文句を言える義理はない。それに、そもそも私にしたって、人から「オマエだって自分の趣味を絶対化したうえで、そこにずさんな理屈を後づけでくっつけてテキトーなことを語ってるだけじゃねえか」と言われたら、返す言葉もない。
 だがそれにしても、名曲は、それを個人の趣味や経験に還元することなく、正当に批評されるべきであるという思いがある。「ボクが○○という曲をはじめて聴いたとき、ボクは○○歳で、ちょうど○○してたんだ。思い出すなあ、懐かしいなあ。ボクがそのときつきあっていた彼女は○○という人で……」*1といったふうな音楽消費があってもいいとは思うけど、そういった個人の経験にすりかえることのできない価値というものが個々の曲にはあると思うし、だからこそ、そこに批評があるべきだと思うのである。


 とは思うものの、では、その「批評」の拠って立つところの基盤はどこに求められるのか、という点が大問題である。
 というか、この問いの立て方そのものが、奇妙である。かりにこれから批評しようとする作品に先立って批評の規準が存在するのだとすれば、その規準によって批評される作品の価値とはいったい何であろうか。批評は、作品に対して本質的に二次的なものである。批評をしようとするのならば、まずその批評より批評される作品の方がえらいのだ、ということを認めねばならないであろう。「批評も作品だ」などと居直るのでなければ*2、作品を批評するという行為に先立って、批評の基盤だとか規準だとかを問うのは、倒錯しているというほかない。
 とすれば、規準や価値をうんぬんする前に、作品そのものと向き合えばよいということになろうか。しかし、これも難しい。
 私は、ここ最近、マニックスのいろいろな曲を分析していくと、ある程度共通する形式を取り出すことができるのではないかと考えていた。なんというか、彼らの曲には固有のマニックス節ともいえるような情趣がたしかにあって、それを定式化・理論化できれば、マニックス本人たちでなくても「マニックスのような曲」を書けるのではないか、と。
 もちろん、それはなかば夢想であって、本気で可能だと考えたわけではない。自身をかえりみて、到底そんな理論化ができるほど私が音楽に精通していないことは分かりきったことだし、また、そんなことが可能ならば、ミュージシャンは労せずに自動的に大量の曲を編み出すことができるはずだが、現実的にそうは思えない。
 そして、かりに私が現実に反して超人的にすぐれた分析能力を与えられていたとしても、分析から把握できるのは、私が把握したいその曲そのものではなく、その曲のぬけがらのようなものではないかという気がする。ある曲を要素に分解し、分解された要素間の関係を明らかにする。同様の作業を他のミュージシャンの曲についても行ない、曲どうしを比較対照する。そんなふうにして、ある曲をコンテクストに位置づけていく作業を「分析」と呼ぶならば、そうした「分析」によってつかまえることのできない「何か」をこそ、つかまえたいと思う。
 すぐれた曲(と私が直感するところの曲)には、コンテクストにおける位置には帰着しえないような固有な「何か」がある、ような気がする。その「何か」とは、聴き手の個人的な経験、すなわちその曲と聴き手である私との「出会い」といったものにあるのではない。ほかならぬ「その曲」であって他の曲にはとりかえのきかない「何か」は、曲にとって外的な、他の曲との関係(コンテクスト)によって決まるのでもなければ、これもまた、やはり曲にとって外的な、聴き手との関係(出会い)にあるのでもない。その「何か」の一部は、曲の内的な構造でありながら、その内的な同一性を破ろうとするような、いわば構造の自己破綻・自己破壊としてあるのではないか、という仮説を、最近私は考えている。マニックスを聴きながらである。


 ところで、マニックスは2作目のアルバム "Gold Against The Soul" において、一部で Queen に似ているという評を受けたのをいくつか読んだり聞いたりしたのを記憶している。その類似点とは、ボーカルのスタイルについて、また、時代がかっているともみえる劇的な曲展開について指摘されていたものと思う。
 そう言えば、Queen の、たとえば "The Miracle" という曲などは、マニックス的だと思った。いや、もちろん時代的には Queen の方が先行しているのだから、それを「マニックス的」と言うのは変ではある。けれども、マニックスを経験した耳で "The Miracle" を聴くと、そこにマニックスに極端なかたちで露出している不気味な「何か」が存在しているのに気づくことができるような気がする。この曲、ほとんど破綻寸前のところでぎりぎり統合されているようなすごみがある。Qeen の曲は、その巧みさゆえに「自然」にみえるのだけれど、その「自然」に見えることで見過ごされてしまうような断絶としての「何か」があるような気がしないでもない。まだ直感的にそう感じているだけなのだけど。
 マニックスの曲の多くは、クイーンの多くの曲同様、過剰に劇的な感じを受ける。「劇的」ということは、たんに「多声的」「他文化的」といった「多」なる要素から構成されていることを意味するだけではないし、また「混成的」「雑種的」「融合された」といった複数要素の調和を意味するだけのものでもない。
 雑多な要素をちりばめた、あるいは切り貼りしたような音楽は、ありふれている。しかし、マニックスの劇的性格が「時代がかっている」とすら思われるのは、そこに極端なまでの統合への意志、あるいは意志による統合が感じられるからである。雑多な要素が曲の「全体」において調和したり共存したりしている、というよりも、反目する要素がぶつかりあって「全体」が壊れそうになりながらも、かろうじて「全体」として構成されている。
 思うに、たんに「共存」や「調和」を目指すならば、暴力的とも言える強烈な統合の意志はその必要がない。「共存」するためには、「全体」を区画分けしておいて、それぞれの区画を「多」なる要素のおのおのに与えてやればよいのである。「調和」においては、その「調和」にかなう限りでの「多様」な要素だけを「全体」に取り込んで、取り込めない残りは捨ててしまえばよい。
 マニックスのジェームスという作曲家が稀有だと思うのは、なにかわざと「全体」の中に取り込みがたい要素に執着して、しかもそれをたんに並べるのではなく、強引に接合して「全体」を作り上げようとしているようにもみえるところだ。そういった彼の意志が、彼らの曲の劇的でありながら、内向・鬱屈したエネルギーを含んだ独特の個性を生んでいるのではないかと思う。
 こういう点で音楽を評価してしまうのは、まるでアメリカのナショナリズムのあり方を肯定するようで、われながらどうも不本意で気に入らないところもあるのだが。


 さて、こういったことを、このエントリのタイトルに示した "From Despair To Where" という曲を材料に書くつもりなのだが、今日はこれで力尽きた。その曲に言及するまでの前置きを書いているところで、タイムアップ。実はまだもう少し前置きが必要なのだ。
 いつも思うのだが、私は「前置き」をこそ書きたいのかもしれない。書いていくうえでの到達点を一応想定してはいるのだけど、その「到達点」は実は手段であって、「前置き」の方が目的なのではないかという気が、書きながらしてくる。ゴールが仮設されることで、「書くべき」、あるいは「書きたい」ことが前景化してくる。かように「書く」という行為は、倒錯的であると思う。

*1:かつての知り合いで、聞いてもいないのに、こういうこっちがはげしく辟易することをしゃべり出す男がホントにいた。まじで。

*2:たしかに、批評はその対象とする作品から独立した強度をもった作品たりうると思う。そのことは認めるけれど、しかし、それは結果的に批評も作品たりうるということであって、批評という行為の出発点においての居直りを正当化するものではないと思う。