SANDINISTA! SANDINISTA! SANDINISTA!

 上のエントリでとりあげた曲のおさめられている SANDINISTA! というアルバムは、ほんとうにすばらしい作品。
 彼らは、ロンドン・パンクの盛り上がりのなかでセックス・ピストルズと人気を二分するようなバンドとしてあったのだけど、この SANDINISTA! でレゲエとダブ・サウンドに傾倒し、多くの支持者を失望させたと伝えられている。
 ちなみに、少年時代のカート・コバーンが初めて買って聴いたパンクのアルバムが、この SANDINISTA! だったらしい。カートという人は、けっこう頭でっかちな少年だったようで、雑誌などの活字情報から「パンク」の歴史を学び、驚喜したという。で、最初に聴いてみたのがこの SANDINISTA! で、いたく失望をおぼえたというほほえましいエピソードが残っている。
 SANDINISTA! におさめられた曲は、"The Street Parade" がそうであるように、聴く側の焦点化しようとする意思をずらしてやるような仕掛けのなされた曲が多い。ダブ処理された音にしてもそうだし、過剰ともみえるエフェクトや効果音、Timon Dogg という人の奏でる狂ったバイオリンも、混沌とした印象を与えるものになっている。歌としても、左右のチャンネルで2人のジョー・ストラマーがかみ合わないことをつぶやき合っているもの(If Music Could Talk)があったりと、歌が明確な像を結ぶことを回避する工夫が意図的になされていると言ってよいと思う。
 ニカラグアの革命政権からとったアルバム・タイトルや、徴兵の拒否を呼びかける "The Call Up" という曲があったり、また暴力、戦争、死を歌ったたくさんの歌たちは、いわば「メッセージ性」が強いものと言ってもよいのかもしれない。ただ、それは音楽の外側にそれと別のものとして取り出せるような、直接的な「メッセージ」ではない。彼らが音楽を作り、奏でることと分離できるたぐいの「メッセージ」ではなく、彼らの音楽そのもの、またそのやり方自体が豊かなメッセージたりえているということだと思う。「メッセージ」などというものではなく、メッセージなのである。
 彼らは考えたことを音楽にしたのではない。音楽することに先だって思想やメッセージがあるのではない。彼らの音楽そのものが彼らの思想の過程であり、メッセージである。またそれは、聴衆を動員するための手段としての「メッセージ」ではない。だから、「目的」に焦点化されるような形をしていない、のだ、という、気がする。
 この作品で歌われている暴力への怒りや悲しみは、私たちの経験する怒りや悲しみがそうであるように、種々の雑音を含んでいる。怒ったり悲しんだりする感情は、近くを車が通りすぎる音や洗濯物を干すときのパタパタという音、雑踏で聞こえてくる無関係な人の話し声、つけっぱなしのテレビから流れてくるおしゃべり等々と混ざり合っている。私たちは一方で怒り、また悲しみながらも、多方向に向けられた私たちの感覚器は様々な雑音を知覚し拾ってくる。私たちはそんな散漫な知覚を抱えながら、怒ったり悲しんだり苦しんだりしている。純粋な怒りや悲しみや苦しみは概念として仮構されたものであって、その仮構された概念に苦しめられたりもするものだけれど、死なないかぎりは、知覚は外に向かって開放されていて、そのかぎりで生きていることができる。
 The Clash の音楽は、聴衆にむかって「聞かせる」だけではなく、それ自身が他なるものの声と音を「聞く」構えをもっている。そんな開かれた形をしているから、必然的に混沌とした姿になるのだと思う。私は、それを対象として「見る」のではなく、その世界に入りこむことができるかのように思う。