The Clash / The Street Parade

 よくプロモーション・ビデオなどで、街の雑踏のなかで歌手が歌っているという映像がある。大勢が往き来するところで手を広げたりして歌ってる姿は、街ゆく人たちにとって奇異なものであるはずである。にもかかわらず、誰も気にもとめない。そして、そんな周囲の無関心を歌い手は気にするようすもなく、歌いつづける。
 こういう図には、なにか「詩的」な雰囲気が感じられてしまう。それが「詩的」なものと感じられるために、つぎの三者が関わっている。すなわち、歌い手、無関心な街ゆく人たち、そして、それらをこちら側から眺める私の視線である。
 街ゆく人々の無関心を意に介さぬかのような歌い手の姿は、歌い手の歌う歌が直接の宛先を失ったものとして、こちらから見ている私に感じられる。つまり、私にとって、歌い手の歌は誰かに受け取られるために発せられたものではなく、歌い手の内的なものにほかならないと思われる。伝達されるべき内容をともない、伝達という目的に従属する「手段」としての歌ではなく、「純粋」な内面の吐露としての歌。


 ステージに熱狂する聴衆を映しだす映像は、これとまったく違った見方を私たちに強いる。そこでは、画面上のステージに立って歌う歌い手の歌はたしかに聴衆へと向けられていて、画面を見る私は、画面のなかの聴衆と同一化しようとする。画面を凝視する私は、画面上の聴衆の欲望を模倣して、ステージ上で歌われる歌を彼らとともに求める。このように構成された映像では、私は聴衆のひとりになることができる。
 反対に、互いに関心を払うことのない歌い手と通行人を映しだすプロモーション・ビデオの映像は、画面を眺める私を個人化する。歌い手は、だれに語りかけるともなく歌う。歌い手は聴き手から切り離されており、それを私はひとり外側から覗いている。歌い手が雑踏から疎外されてあるように、それを凝視する私も疎外されているように感じる。孤独な歌い手が、鏡として私自身を映しだしているかのように錯覚する。


 The Clash の "The Street Parade" という曲は、このようなプロモーション・ビデオと類似した構図をとっているものと考えられる。この曲は、すぐれて映像的な喚起力をもった曲であって、タイトルの示すストリート・パレードが目の前で行なわれているかのような印象を聴き手に与える。
 リズム隊は、パレードの行進者たちの、やや浮き足だちながらも熱狂にまでは達しない、ゆったりとした足どりを私たちに伝えてくれる。ドラムスは落ち着いて単調にエイトビートを刻んでいる。そこにからんでくるベースが絶妙。ゆっくり歩を進めているドラムにブレーキをかけるように介入してくるベースは、パレードの静かな躍動を伝えるかのようである。この曲でベースはいくつかのパターンを使い分けているのだけど、基本になっているのは、1、2拍目でブーンとうなって、3、4拍目は黙るというパターン。聴く側からすれば、1、2拍目で前進する力を与えられて、3、4拍目でストップをかけられ、ふわっと宙に浮かされるといった具合。その止め方は、過度に鋭いものではなく、いささかだらっとした感じ。だから、そこで与えられる浮遊力は、やわらかいものだ。
 そんな興奮をおさえたようなリズム隊に、練習で吹いているかのようないいかげんなサックス、ディレイをかけたもやもやとしたギター、勝手に弾いているようなピアノなどが、喧騒の色をつけている。これらは、けっして前景に出ることはなく、あくまでも後景としての雑踏を演出している。
 ジョー・ストラマーは、それらと交錯することなく、つぶやくようにボソボソと歌っている。というか、ギターなどの方が、ストラマーの歌に対してきっちりとかけ合いを演じることをこばんでいる様子。それらは、後景にありながら、遠近法的にジョー・ストラマーを中心化するような「背景」ではない。
 先ほどあげたプロモーション・ビデオの構図は、あくまでも歌い手に焦点をあてるものであって、街ゆく無関心な人々は、その焦点化のための「背景」としての演出上の雑踏であった。しかし、ストリート・パレードという曲における雑踏は、歌い手を焦点化する働きをしていない。だから、この曲の喚起する映像を外から眺める私たちは、ストラマーを凝視することができず、その視線をずらされる。
 僕はもはや画面の外で傍観者の立場でいることはできず、その絵の中に入りこんでいる。画面の外から歌い手に同一化するのではなく、雑踏のなかに放り出される。