小比類巻かほる / 両手いっぱいのジョニー

 うふふ。懐かしくも、うれしいものを見つけた。


YouTube - 小比類巻かほる − 両手いっぱいのジョニー


 この突きぬけた開放感はどうだ。スコーン!
 全然力んでいるようには見えなくても、声にズドーンと抜けてくるパワーがある。
 ああこれは 80年代の明るさだなと思うものの、いや、でも "Hold On Me" をひっさげて彼女が出てきたときの鮮烈さを思い出すと、かの時代にあっても特異だったのだと思う。
 当時まだ J-POP なんて言葉は当然なくて、「歌謡曲」というくくり方がまだ生きていたと記憶するのだが、小比類かほるは同時代の中で、ずぬけてドライだったと思う。「ドライ」というと冷たい感じがするけれど、彼女の場合ホットでドライという感じ。シケた音楽の対極にあるドライさと、ドライブ感が生み出すパワーと熱さ。

どうしてそんなに まぶしいの
こっちを向いてよ little boy friend
ちょっと年下の君 危ないほどフェミニスト
遠くで見ている私 気づいて


 そうそう。昔こういう用法で「フェミニスト」って言ってたよ。「危ないほどフェミニスト」といっても、「日本の伝統的な家族を破壊する」とかいう理由で「危ない」んじゃありませんよ。
 それはそうと、彼女の歌なんかもそうだけど、80年代のポップスの歌詞には頻繁に英語が頻出するものが多い。そういうふうに英語がぽんぽん入ることに対しては、当時も今も否定的に考える人がたくさんいるように思う。いわく軽薄だとか、日本人なんだから日本語で歌えとか、インチキ英語で恥ずかしいとか。
 でも、小比類巻やサザンが英語を歌詞に織り交ぜるのについて、私は肯定したい。そう考えるうえで重要だと思うのは、彼女たちは "J-POP" という、それこそ恥ずかしいくくり方が登場する以前の人たちだということだ。
 "J-POP" というのは、FM J-WAVE が90年代になって使い出した言葉で、それが音楽商品のコピーとしてまたたく間に広がったのだった。これが気持ち悪いのは、いわゆる「洋楽」に対するコンプレックスの裏返しで、「日本」なるものを押し出そうという妙なナショナリズムが透けてみえることだ。音楽を聴くのに「国産」であることにこだわる意味なんてあるの?
 80年代のポピュラー音楽には、そういった区分にとらわれないルーズさというのがあったと思う。

藍色に消えた Silent Night
海の向こうには Sun Rise
あの日もこんな輝きを
待ち続けていた One Day


車のサイドシートに
残した I Love You 見つめて
2度目の Remember すれば
もどれる気がする*1


 "Sun Rise" は「日の出」でも「あかつき」でも「朝日」でもなく、やっぱり "Sun Rise" でなければならないのだ。
 不純物を抱え込んで、雑種の言葉を編めるいい加減さというのが、私は好きだ。それが「占領下」という「戦後」の状況の反映だということは否定できないけれど、ところどころに英語のまぶされたいい加減な歌には、それはそれでリアリティがある。舶来のもの(というのは具体的にはアメリカ的なライフスタイルのことだけど)に対する漠然としたあこがれだとか、そこに投影された輝かしい未来への夢だとか、そういうものが詰まっていたのだ。そんな感情を私はまるごと肯定したいと思う。
 たとえば、冒頭でリンクした映像には小比類が車を drive している scene があったけど、彼女の作る lyrics には、自動車で疾走する風景がしばしば出てくる。そういったものがかつて象徴していたのは、もちろん American way of life である。であるけれども、それは America という現実の場所(と言ったってアメリカは広いわな)というより、夢の国である。
 そういうものがかつては生きていたのだと思う。彼女のCDは、いまだにときどき引っぱりだして聴くことがあるんだけど、その突きぬけたような明るさがまぶしくもあり、うれしくもあり、せつなくもある。
 これなんて、まじ名盤。だと思う。
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TIME THE MOTION

TIME THE MOTION

*1:"WHAT'S GOIN'ON"(作詞:小比類かほる)より