Jeff Beck / Scatterbrain

 猫や犬はかなり高度な知性を持った動物であると言ってもよいと思う。ところが、彼らに音楽を聴かせてみても、愉しんでいるようには見えない。これは、考えてみると不思議ではある。
 たしかに、犬猫の知能では、さすがにへヴィ・メタルやクラシック音楽の高度な様式美までは理解できないだろう(私も理解できない)。また、動物には、人間のように B・B・キングと E・クラプトンのギター・プレイを識別し、前者をより好むといったことが不可能だろうことも、当然だと納得できる。不思議ではない。
 ところが他方で、人間の音楽を愉しむ能力の相当部分は、「自然な」身体に根ざしているようにも思われる。つまり、「深く」音楽を鑑賞するためには学習・修練・知識が必要だとしても、「素朴」に音を愉しむというレベルだったら、われわれの生まれながらにして持っている身体によって充分可能なのだと。
 しかし、だとするならば、犬猫のような動物であっても、音楽にもっと鋭敏な関心を向けるのではないだろうか。私がかつて一緒に暮らしていた猫は、どんなレコードをかけても(といってもロックばっかりだけど)、我関せずの態度であった。大変にかしこい猫であったにもかかわらずである。
 以上から考えるに、音楽を愉しみうるという人間の能力において、生得的な要素は思いのほか少なく、後天的に獲得された要素が大部分を占めるのではないだろうか。
 まあ、ハーモニーに美を見いだす感性に関しては、生理学的および物理学的な見地から(よく知らんけど)かなりの部分を説明できるような気もする。おそらく、人間の身体は、倍音を心地よく感じ、不協和音を耳障りに感じるよう、生まれつき「できている」のだろう。
 もっとも、安定した和音(3度・5度の和音)と不安定な和音(テンション・コード)の巧みな配置とさじ加減によって構成された「曲」という単位になると、私たちはもはや「自然な」身体という範囲を大きく逸脱したところで、快楽を感じているのだろう。いわば、物語を聞いて快楽をおぼえるのと同等に高度な知性ないし文化が、そこでは要請されるものと思われる。
 さて、前置きが長くなったが、リズムについてである。とくに今日の曲を聴いて私は思うのだが、リズムというのはハーモニーに比しても、きわめて形而上学的(metaphysical)なものなんじゃないだろうか。
 3拍子の曲もあるが、2拍子(2の1乗)の曲があり、4拍子(2の2乗)、8拍子(2の3乗)の曲がある。また曲の循環構造としては、4小節、8小節、12小節、16小節といった単位で一回りするものがある。たとえば、円を描いて2本の直線を引くことで、円は4等分できる。4本の直線で8等分の、6本の直線で12等分の、8本の直線で16等分の扇形が得られる。
「全体」を設定し、それを等分していくという形而上学的思考。その思考の所産として、リズムの単位が見いだされたのではないか。そんなことを私は空想する。
 もちろん、呼吸や鼓動(beat)、あるいは労働における身体の動作、といったミクロな単位の積分として、リズムが生成するという側面はあろう。おそらく、音楽の起源においては、こちらの側面が先行しているのだろうと想像する。しかし、それと逆方向の、「全体」を微分することで単位を見いだしていくという思考が、現在の多くの音楽のリズムを規定する要因になっていることもあるかもしれない、とも思う。
 そう考えると、身体との整合性というより、形而上学的な形式的整合性が保たれているかぎりにおいて、リズムや楽曲の構成というものは、「聴ける音楽」として成立する、ということもありそうだ。言い換えると、それらは身体から案外に「自由」でありうるということ。
 以上のようなムチャクチャな仮説を裏づけるために、今回 "Scatterbrain" という曲を考えたいのである。
 このインストルメンタルの曲は、9拍子(!)の箇所と、ノーマルなエイト・ビートの箇所を往復する、という構造をしている。9拍子なんて曲、私はほかに知らないのであるが、この曲が「変」かというと、そう「変」には思えないのである。たぶん、この9拍子を規範からの「逸脱」といった観点から説明するのはふさわしくない。さほど違和感なく、スムーズに耳に入ってくるのである。
 なぜだろうか。「3の2乗」の「9」だからだろうか。そうかもしれない。
 しかし私の考えでは、この「9」は人間特有の「ものを数える」という行為と関係している。また、この楽曲が特に違和感なく受け入れられることには、十進法という制度が関係している。
 十進法に拘束された人間にとって、「"9" まで数えて "1" に戻る」という行動は何を意味するのであるか。"10" まで到達すれば、"11, 12, 13, 14……" というふうに「先」があるのだ。しかし、位替えとは、なかなかの難所である。この難所を越えなければ、「先」に進むことはできず、"1" に戻って最初からやりなおすほかない。かくして、"1" から "9" までしか知らぬ私たちは、その9分割された世界に閉じこめられ、壊れた機械のように、賽の河原に石を積み続ける餓鬼のように、ループをくり返す。位替えを抜きにしたとき「最大の数」である "9" が、ループを運命づけているのである。
 このようにして、9拍子であることには必然性があるのであって、規範・決まり事の破壊ではなく、一種の構造的な安定性をなしているのである。それは、身体に基礎づけられたPhysical な安定性でなく、metaphysical に決定づけられた安定性である。
 そして、この閉塞的な9拍子のループとのコントラストにおいて、これに続くエイト・ビートの箇所がいきてくるのである。永遠に "1" に回帰することを宿命づけられたかのような地獄から抜け出るようにして、エイト・ビートのリズムへの移行がおこなわれる。「先」に進めない世界から、前進を許された世界へ。この移行の瞬間の、視界がいっきに開けるかのようなさまが、壮観である。
 むろんのこと、ベック先生のギター・プレイも神がかっているが、このエイト・ビートの箇所においてはベース・ドラム・キーボードの躍動感がすばらしい。とりわけ、Philip Chenn によるベース・プレイが奇跡的に秀逸。基本的には他のパートの下支えをしっかりとやりつつも、ときおり周りに引きずられるようにして後ろから追いかけたり、逆に、周りにのせられるように前を走ったりと、ところどころでイレギュラーな動きをする。それが、もうね、神わざと言ってよいほど、ぴったりハマってるんでありますよ。こういう演奏については、形而上学的にではなく、〈身体〉を基盤とした(とはいえ、「自然な身体」でなく高度に訓練された〈身体〉に根ざした)ものと言えると思う。


 YouTube に動画がアップされていないかな、と思って探してみたら、この曲の最近のライブ映像が見つかった。今日紹介したアルバムに収録された音源とはだいぶ違って、アヴァンギャルドって感じの演奏。唖然とするほどの猛スピードで演奏している。これはこれでおもしろい。


YouTube - Jeff Beck - Scatterbrain (North Sea Jazz 2006)


追記)
 口から出まかせ、尻から屁まかせで書き散らしているのは毎度のことですが、しかしまあ、このエントリはほとんど妄想の域に達してますわ。読み返してみて、顔から火が出るようだ。いやあ、もうデタラメ。すんませんでした。