まんず、すかだね

 大臣の「しょうがない」という発言が、世間では問題になっているようですけど。
 私の故郷では、謝罪の気持ちを表わすときに「あいー、すかだねっす」「まんず、すかだねぇな」と言う。
 これを日本語に直訳すれば、「あ〜、しかたがないことです」となる。「すかだね」が謝罪の文句だと知らない異人のかたがたにとって、こう言われるととまどうものらしい。
 明らかに落ち度はむこうにあって自分はむしろ不利益をこうむっている側なのに、相手は「まあ、しょうがないよね」などと無責任なことを言って開き直っている。何様のつもりなんだ、こいつは。と誤解をまねいてしまうのである。
 「つぐないようのないことを私はしでかしてしまいました。何とお詫びをしたらよいのか……」というつもりで「すかだね=(つぐないの)しかたがない」と言っているのに、客人たる日本人は「私のしでかしたことは、不可避のしかたがない結果だったんですよ」という自己免責の意味に解してしまうわけだ。
 それはともかくとして、「しかたがない」「しょうがない」という日本語の表現は、いかなる文脈においてであれ、政治家が使うにふさわしいものとは思えない。この表現は、話者の意識において、行為を「不可避」あるいは「自然」「必然」としての結果へと溶解させてしまう働きを持っている。「しょうがない」とは、「自然な」「必然的な」運命なるもののもとに自己の判断をあいまい化するものであり、現実的な他者(大臣の発言にそくして言えば、原爆の被害者および加害者)の存在が話者の意識から欠落していることを示している。
 (職業政治家のものに限らず)政治的な発言とは、非難・謝罪・約束といった行為遂行的な言葉として聞き手に解釈される発言のことであると定義しうるように思う。つまり、他者との関係において自己の責任を規定することを、政治的なふるまいと呼べるのではないかということ。とすると、現実的な他者ではなく、いわば「運命」のほうを向いた「しょうがない」という発言は、みずからの発言を政治的な行為から遠ざけようとするものだと言うことができる。
 ところで、今回の騒動を見ていて思い出したのが、丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』に対する江藤淳の激しい批判の文章。

 いずれにしても、「今の日本」が「何となくかうなってしまった」(強調は江藤)はずはない。どうなっているにせよ、それは「何となく」ではあり得ず、さまざまな要因の堆積のうえでそうなっているのである。これに関連して不可解とも不思議ともいうべきことは、この小説のなかでシュティルナーとハンス・ケルゼンの所説を解説し、英仏の国家論のモデルをしばしば引例している作者が、なぜかアメリカについてははなはだ不充分にしか言及していない、という事実である。
 なぜ、作者は、アメリカを見ようとはしないのか? いや、アメリカと日本との接点を見ようとしないのか。その接点を直視し、その構造を洞察する努力を惜しみながら、どうして「今の日本」でリアリティを感じさせる国家論が可能だろうか?
 それにもかかわらず、作者丸谷才一は、なぜか日米の接点から眼をそらせつつ、日本は「ただ存在」し、「何となくかうなってしまった」という類の、架空な認識の上にこの "裏声" 小説の世界を組み立てようとしている。いったいこの作者は、どの程度自由な立場で書いているのだろうか? 逆に言えば、丸谷氏は、いかなる禁忌にどの程度拘束されているのだろうか?
「自由と禁忌」(『江藤淳コレクション3』ちくま学芸文庫


 引用するために、いまぱらぱら読み返してみたら、かなりおもしろいことをいっぱい言っている。じっくり再読しなければ。ともかく、1983年に以上のように書いた江藤がもしまだ生きていたなら、久間大臣の一連の発言(アメリカの対イラク政策批判もふくめて)をどう評価したのか、興味深いところだ。





 ところで、今回の久間発言を批判する側の一部もふくめて、いいかげん「唯一の被爆国」という言い方はやめたらどうだろうか。
 第1に、「国」が被曝するというのはおかしい。広島・長崎では朝鮮人らもふくめて、「国」ではなく「人間」が被曝したのであって、「国」は有機体じゃあるまいし、被曝するわけなかろう。
 第2に、「唯一の」というのが、歴史的事実として明らかにまちがいである。チェルノブイリイラクなど、世界中に被爆者はいるのだから。