漢字について

 常用漢字表が見直されるんだそうです。


「鶴」「亀」「尻」…常用漢字の追加候補 220字公表

 漢字小委員会は、書籍や新聞などで使われている漢字の頻度調査をもとに、上位の字を選び出し、この中から新常用漢字表に採用する字を絞り込む作業を続けている。
 220字には、動物名では虎、亀、鶴、鷹(たか)など、身体の名称では尻、膝(ひざ)、股、眉などが含まれている。鬱(うつ)のように書くのは難しい漢字もあるが、これらは「情報機器を利用して書ければよい漢字」として位置づけられる可能性もある。
 一方、銑、錘、勺、斤、匁、脹(ちょう)の6字はほとんど使われていないことなどから、常用漢字からはずす方向で検討するとしている。


 あらたな追加を検討されているのが200字あまり、はずす候補がたったの6字。ということは、文部科学省としては、常用漢字をぜんたいとしておおはばに「ふやす」方向で検討作業をすすめているってことですね。
 わたしはそもそも、おかみが文字表記にあれこれ口をだすのはうぜーな、ほっといてくれよ、とおもうわけですが、とりあえずそこはおきます。役所が規制*1するにせよ、われわれのようなブロガーもふくめた日本語の書き手たちが自主的に判断するにせよ、漢字の使用はなるべく減らすべきだとかんがえています。
 小学校6年、中学校3年。あわせて9年ですよ。はてしなくながくつらい義務教育の年月をついやして、2000字ちかくある常用漢字がマスターできたりできなかったりするわけです。もちろん、9年間の義務教育が漢字学習ばかりにあてられるわけではありませんけれど、学校という制度のそとで、これらを身につけるのはそうとうにたいへんなことだ、と予想されます。
 しかも、ひとつひとつの文字の意味・読みかたを理解しただけでは、まだ新聞を読むのにさえ足りません。おびただしい数の熟語があるからです。
 よく漢字が造語能力にすぐれているといったことを言う人がいます。ひとつひとつの字が単独で意味をあらわしている漢字は、2つ以上の文字をくみあわせることであらたな単語をつくるのに適しているし、そうしてつくられた熟語は読む側にとってもその意味を類推しやすい、というわけです。
 しかし、すくなくとも明治時代以降にあたらしくつくられた熟語にかんしては、漢字のそうした「利点」など、言われてるほどたいしたものじゃありません。英語やドイツ語など西欧語の翻訳をとおしてつくられた熟語は、それを構成するそれぞれの字の意味がわかってても、熟語としての意味は理解できないようなものばかりです。
 たとえば、「象徴」という熟語。「象」というのは、お鼻のながい「ぞうさん」、あるいは「もののかたち」といった意味でしょうか。「徴」は「しるす」「あらわす」という意味でしたかしらね。すると、「象徴」とは「かたちのあるもの(「鳩」など)をつかって、観念(「平和」など)をしるす・あらわす」とまあ、そんな意味でしょうか。
 なるほど、なかなかよく考えてつくられた熟語だとは思います。けれども、わかりやすいかといったら、そんなことないでしょう。さきの「かたちのあるものをつかって、観念をしるす・あらわす」というような説明だと、こんどは「観念」ってなんだよ、という話にもなります。「象」「徴」「観」「念」などなどなどなど、たっくさんあるややこしい文字をなんどもなんども書きとり練習して、おまけにこれまたぎょうさんある熟語の意味をひとつひとつおぼえ、ようやく「象徴」とか「観念」といったことばを読み書きできるようになるわけです。めんどくせー。むりせんで「シンボル」「イデア」とでも言っといたほうがラクやったんちゃう?
 「文化」「社会」「概念」「体系」「階級」……。くみあわせの文字をみても、熟語としての意味がさっぱりわからん、というものはあげていけばきりがありません。わざわざ漢字なんぞつかう必要はぜんぜんなかったわけです。「概念」なんてことば、いまだによく意味がわかりませんので使わないようにしているし、「社会」はなんとなくわかるような気がして使ってますけど、「社」と「会」の字の意味から理解しているわけではありません。だから表記は「しゃかい」か、もしくは「ソサイエティ」「ソシエテ」とかでもぜんぜんいいんじゃない?
 ともかく、おびただしい種類の漢字とその熟語のあらわれる日本語文章の読み書き能力というのは、日本政府の教育行政に屈服しつづけ、学校に通いつづけた者(かく言うわたしもそのひとりです)の《特権》となっております。ニューカマーの移民たちをふくめて日本政府の支配する学校に通わなかった/通えなかったひとびとが、これをマスターするには、なみたいていでない苦労を要するでしょう。
 あと、つけたすと、これは漢字にかぎらないかもしれないけれど、「正しい表記法」というやつを必要以上に要求する人がけっこういて、むかつきます。「十把一絡げ」は「じゅっぱひとからげ」でも「じっぱひとからげ」でも、どっちだっていいじゃん。意味わかるんだから。「しめすへん」を「ころもへん」にして書いたってべつにいいじゃん。「ひへん」も「めへん」も似たようなもんじゃん。いちいちあげあしとるんじゃねえっての。
 文章の意味がわかってるくせに、表記法の「あやまり」をことさらにあげつらうというのは、学校教育のわるい影響だとおもいます。日常的に使われている漢字をかんぺきに「正しく」書き、また読めるひとはごくごくまれでしょう。だから、「漢検」などというバカげた検定試験がなりたつのです。ことばはだれのものなの? それはじっさいに使っている人間たちのものではないの? 文部官僚どもや学校教師どもに「正しい/あやまっている」の判断をくだす権利などありません。表記法に「正しい/あやまっている」という判断が可能だという発想は、おもいあがりと言うべきです。そういう発想こそ、すでに日本語の書き手になっている人たちやこれからそうなろうとしている人たちに「恥」の感覚・不要な劣等感をいだかせ、そのことによって特権階級の権力のみなもとになっているのです。

*1:常用漢字表は新聞社や出版社などに対しては強制力はもたないものの、これにもとづいて小中学校で学習を強要する漢字がさだめられているわけですから、事実上の「規制」と言えるでしょう。