ナショナリズムと人種主義――B・アンダーソン『想像の共同体』より


想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険)

想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険)


 ひさかたぶりに再読。まえに読んだときには、ゴテゴテかざりつけられた文体で読みやすくはないものの、そんなむずかしい内容とは思いませんでした。しかし、こうして読み直してみると、ややこしいわー。読むほどに、ナショナリズムとはなにかが、ますますわからなくなってゆくようにおもいます。
 ネーション(国民)とはなにか。たしかに、著書はこれについて簡単にして明快な定義をあたえてはいます。

 国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの[最高の意志決定主体]として想像される……*1


 ネーション(国民)の背後、あるいは根っこに、なんらかの本質をみつけることはできない。「本質」というのは、たとえば、「国語」だとか「(国民の)文化」だとか「(国民の共有する)歴史」だとか。ナショナリストたちは、それらの「古さ」を主張する。けれど、「国語」や「文化」といったものそれ自体が「国民であること」を基礎づけているわけではない。
 結局のところ、あまたの見知らぬ「同胞たち」、今後もそのほとんどと出会うことのないだろう「同胞たち」をたがいに結びつけているのは、ある種の《想像力》のありかたである。「われわれ」は――静岡にすむ人も秋田にすむ人も熊本にすむ人も――おなじひとつの「社会」にはめこまれており、また、おなじひとつの時間のなかを同時に移動しているのだという感覚。こうした感覚を可能にしているのは、想像力にほかならない。
 ここまでは、よくわかります。しかし、さきに引用した定義の後段。国民のイメージが、「本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」、これはなんですか?
 いや、現象としてはわかるんですよ。じっさいのところ、たとえば「日本国民」のイメージは、朝鮮人キューバ人やコンゴ人やパレスチナ人をふくまない「限定されたもの」として想像されています。それがどういうふうにして限定されてしまうのか、その歴史的経緯についても、本書を読むとくわしく説明されています*2
 また、「国民」のイメージが、「主権」という考え方とセットになってあらわれるということも、新聞の論説(笑)や論壇系ブログ(笑)などで目にするおなじみの光景ではあります。自分が「国民」であるという自覚のある人は、かならず「日本はどうあるべきか」式の主権者の位置に身をおいたおしゃべりをするものだし、その逆もまたしかりです。「外国人住民に選挙権を認めよう」という提案に、一部のナショナリストが怒りくるい、反対をわめきたてたりするのも、「国民」のイメージと「主権」という考え方の密接な関係をしめしているもの、といえるでしょう。
 だから、著者がナショナリズムの現象やその歴史的起源を分析するにあたって、さきにみたようなかたちで「国民」を定義するのは、よくわかるのです。しかし、このたび読みなおしてみて気づいたのは、こうした分析上の理由とべつのモチーフが、かれの「国民」定義にはこめられているのではないか、ということです。それは、著者がナショナリズムのいわば《可能性》をみようとしているのではないか、ということです。この点を述べていくために、しばし定義についての話からはなれることにします。
 この本を読んでいて、ちょっとした肩すかしをくらったような感じがするのは、著者がナショナリズムをあんがい好意的にみているようにおもわれることです。序文でかれ自身、つぎのような問いを立てているにもかかわらず、です。

……国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。
 これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的問題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか*3


 わたしたちはナショナリズムがひきおこした悲惨な事例をいくらでもあげることができるでしょう。しかも、ナショナリストが語る、たとえば「日本文化」が、じっさいのところでっちあげられた「伝統」のイメージにすぎず、あるいは「日本人の国民性」なるお話がたんなる思いこみにもとづくたわごとでしかないことは、もはやあきらかです。そうしたでっちあげのフィクションを聞いて真に受け、またみずから熱にうかされたようにそれをとなえ、自分の命を投げだしたり、たがいに殺しあったりするナショナリストたちが、かぎりなくおろかしくみえるものです。
 ところが、著者は「国民」を定義するのに、あえて「偽りの仮装」「捏造」「欺瞞」といったことばをしりぞけ*4、かわりに「想像」という語を選択しています。そればかりか、著者は、本書に登場するナショナリストの闘士たちに、ときに深い共感をいだいているようにさえみえます。まるでナショナリストが見ず知らずの同胞に共感をよせるように。
 著者のアンダーソンさんは、ナショナリズムや、かれが著作に登場させるナショナリストたちのなにに愛着を感じているのでしょうか。あるいはこう言ってよければ、かれはいったいナショナリズムのどこに《可能性》をみているのでしょうか。
 これまでわたしは「ナショナリズム」ということばを安直に使ってきましたけれど、コイツはなかなかにとらえがたいものであるようにも思います。どの角度からみるかによって、それはまったくべつの姿をあらわします。本書を読みながら、わたしは、アンダーソンさんの言うナショナリズムが、わたしが知っているはずのナショナリズムとあまりにずれているのに困惑しています*5

 ナショナリズムのほとんど病理的ともいえる性格、すなわち、ナショナリズムが他者への恐怖と憎悪に根ざしており、人種主義とあい通ずるものである、と主張するのが進歩的、コスモポリタン的知識人のあいだで(中略)、かくも一般的となっている今日のような時代にあっては、我々はまず、国民(ネーション)は愛を、それもしばしば心からの自己犠牲的な愛をよび起こすということを思い起こしておく必要がある*6

……先に見たように、「自然」なものにはいつもなにか選択を許さないものがある。こうして、国民ということ(ネーションネス)は、皮膚の色、性、生まれ、生まれた時代など――ひとがいかんともしがたいすべてのものと同一視される。そしてこうした「自然のきずな」のなかに、ひとは、「ゲマインシャフトの美」とも言いうるものを感知する。別の言い方をすれば、そうしたきずなのまわりには、それが選択されたものでないというまさにその故に、無私無欲の後光がさしている*7

……歴史家、外交官、政治家、社会科学者などが「国民的利益(ナショナル・インタレスト)」の観念にまったく安心していられるのに対し、いかなる階級であれ、ほとんどの普通の人々にとって、国民(ネーション)の意味は、それが利害をもたないということにあった。そしてそれだけの理由で国民は犠牲を要求できる。
 先に指摘したように、今世紀の大戦の異常さは、人々が類例のない規模で殺しあったということよりも、途方もない数の人々がみずからの命を投げ出そうとしたということにある。こうして殺された人々の数が、殺した人々の数をはるかに上まわったことは確実ではないだろうか。


 はてな……。わたしがナショナリストだとおもっていたあの人やあの人やあの人たちは、ほんとにナショナリストなのでしょうか。たとえば、石原慎太郎氏はどうでしょうか。かれに「無私無欲の後光」がさしているでしょうか。「ナショナル・インタレスト(国益)」などという下品でかつ意味不明なことを主張してはばからない読売新聞や日経新聞論説委員たちを「ナショナリスト」とよんでいたわたしは、根本的にまちがっていたのかもしれません。また、占領軍の兵士にレイプされた同胞の少女にむかって、「愛」どころか憎悪にみちたことばを投げつける産経新聞ナショナリストの新聞なのでしょうか。おなじように、韓国人や中国人を憎悪してやまないネット右翼のみなさんをナショナリストと称するのは、ふさわしいことでしょうか。
 こうしてみると、アンダーソン氏のいう「ナショナリスト」にちかいのは、むしろ志位和夫さんや天木直人さんやきっこさんであって、日本で「右翼」とよばれている人たちの多くは、それと別種のなにか、ってことになりそうです。
 じゃあ、現代日本の右翼たちって、ありゃいったいなにさ? アンダーソンさんの理屈にのっとれば、それはずばり「人種主義者」ということになりそうです。本書のユニークさのひとつは、「ナショナリズム」と「人種主義」をはっきり切りわけよう、という意思につらぬかれていることです。ナショナリズムをこじらせると人種主義者になってしまうのではなく、そのふたつはまったくのべつものなのだ、ということをかれは言おうとしているようにみえます。

 人種主義の夢の起源は、国民の観念にではなく、実際には、階級イデオロギー、とりわけ支配者の神性の主張と貴族の「青い」血、「白い」血、そして「育ち」のなかにある。とすれば、この近代的人種主義の種馬とされるのがそこいらのプチブルナショナリストではなく、ゴビノー伯ヨゼフ・アルチュールであってとしても別に驚くにはあたるまい。そしてまた全体として、人種主義と反ユダヤ主義は、国民的境界線を越えてではなく、その内側で現れる。別言すれば、それは、外国との戦争を正当化するよりも、国内的抑圧と支配を正当化する*8


 なるほど。ガテンがゆきます。右翼がはげしいにくしみをむけるのが、ロシア人でもタイ人でも、また日本を占領している合州国でもなく、とりわけ中国人と朝鮮人であるということ。ここには大日本帝国の版図と野望がおそらく関係しているでしょうし、また日本の「国内」にたくさんの朝鮮人や中国人がくらしているということも関係しているでしょう*9
 たしかに、ナショナリズムは、国民の同一性と連帯をうったえることで、階級的対立をおおいかくす側面があるようにもおもえます。だから、ナショナリズムを「階級イデオロギー」とみなすことにも、いちおう正当な理由があるような気もしなくはありません。けれども、本書を読んでいると、ナショナリズムに「階級イデオロギー」をみるのは、いわば《深読み》のしすぎのような気にもなってきます。
 1913年、オランダ人たちは、100年まえのフランス帝国主義からのオランダ国民の解放を記念する祝典を、オランダ領東インドで(!)開催するという暴挙にでます。オランダ国民の解放を、まさにオランダの支配する植民地でいわう、というハレンチなまねをしたわけです。しかも、この祝典において、オランダは原住民の参加と寄付を命令したのだそうです。
 これに対するジャワ人ナショナリスト、スワルディ・スルヤニングラットの書いた新聞論説「もし私がオランダ人であったならば」(!)が、本書では引用されています。

 私の考えでは、もし我々が(ここでは私は依然として想像上オランダ人なのであるが)原住民に対して我々の独立を祝うようにすすめるならば、それはたんに不適切だというばかりでなく、見苦しいことでもある。まずなによりも我々はかれらの名誉心を傷つけることになる。なぜなら、我々は、現に我々が支配している国で我々が支配している国で我々の独立を祝うからである。我々は、百年前に我々が外国人の支配から解放されたことを歓喜の念で迎えようとしている。そしてそれをいま、我々が支配している人々の目前で行おうとしている。かれらもまた我々と同様、かれら自身の独立を祝福する時が訪れることを待ち望んでいるのではないだろうか……*10


 ここには、ナショナリズムが階級支配(植民地主義を、階級的な支配の延長と理解するのはまちがっていないでしょう)にあらがう論理となっているのを、みることができるでしょう。ジャワ人であるスワルディは、「もし私がオランダ人であったならば」と、オランダ人の立場に身をおいています。かれにあっては、「われわれは」という主語によって、ジャワ人にもオランダ人にもなれるのです。
 それだけではありません。オランダ人になったスワルディは、その立場から、原住民の立場を想像しています(「かれら[原住民]もまた我々[オランダ人]と同様、かれら自身の独立を祝福する時が訪れることを待ち望んでいるのではないだろうか」と)。わたしたちはスワルディのことばに、ナショナリズムインターナショナリズムを同時にみてとることができます。そういったことを可能にしているのが《想像力》にほかなりません。
 さて、ここで、本書における「国民(ネーション)」の定義に話をもどしましょう。3点ほど確認しておきます。

  1. 「国民」はまず、「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」として定義されていること。
  2. この定義にあって、「想像」という語があえてえらばれており、「偽りの仮装」「捏造」といった語は意図的にしりぞけられていること。
  3. 「国民」は、「本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」という点。


 たしかに、国民は本来的に限定的なものとしてイメージされます。しかし、国民をイメージするときの《想像力》は――さきのスワルディのことばにみられたように――他国民、あるいはもっといえばナショナリティ(国籍)をもたない人々を、「わたしたち」として想像することをも同時に可能にします。
 わたしたちは新聞を読んで、たとえばじぶんが千葉にいながら、金沢にいるみもしらぬ「同胞」におもいをはせることができますが、おなじようにして四川の地震ビルマのサイクロンの被災者に同情をよせることもできます。また、朝日や読売といった反動マスコミの報道だけをみているかぎりでは、みえにくいですが、たとえばIRIBラジオ日本語をまいにち読むことで、日々パレスチナ人がシオニスト政権イスラエル軍に殺されていることを知ることができます。かれらが、わたしとおなじ「社会」(≠国家)にはめこまれており、わたしとおなじ時間をともに移動しているのを感じとること。それを可能にしているのが、アンダーソンさんのえがく「ネーション」です。
 こうしてわたしたちは、スワルディにならって、つぎのように想像力をはたらかせることができます。「もし私がパレスチナ人であったならば」「もし私が朝鮮人であったならば」「もし私が中国人であったならば」「もし私がインドネシア人であったならば」等々。こういった想像に《可能性》をみようとするならば、「ネーション」をたんなる「捏造」と位置づけるわけにはいかないでしょう。人種主義が排他的なものであるのは、なるほどそのとおりでしょう。しかし、ナショナリズムはかならずしも排他的ではありません。その意味では、「非国民」などとさけんで他者を排斥する者こそが、「非ネーション」です。
 アンダーソン氏は、スペイン領アメリカのナショナリズムが「われわれアメリカ人」という意識をうみだす可能性をはらんでいたことを示唆します*11。また、かれは「なぜ、それでは、『我々インドネシア人』の意識が持続し深化していったのに対し、『我々インドシナ人』の意識はかくもはかないものであったのか」という問いをたてたりもします*12
 げんにいまある限定的な国民意識(「われわれペルー人」「われわれメキシコ人」「われわれカンボジア人」「われわれベトナム人」)は、べつようの国民(「われわれアメリカ人」「われわれインドシナ人」)を構成したかもしれない。おなじように、今後わたしたちの《想像力》は、いまあるのとべつようのネーションをつくりだすことができるかもしれません。たとえば、かつてマルコムXが所属した Nation of Islam はそういった文脈で理解すべきかもしれません。
 さて、わたしは、さきにみたアンダーソン氏の「国民」定義について、一点言いおとしていたことがありました。それは、ネーションが「主権的なものとして」想像される、という点です。
 ナショナリストは、(宗主国によって)「わたしたちが支配されていること」に反対し、「わたしたち自身が主権者になること」を夢みます。だから、ナショナリストは植民地支配に抵抗するし、日本であれば合州国による占領に反対しなければなりません。いわば、《帝国》の支配とたたかい、《われわれの国民国家》をうちたてようとするのが、ナショナリストです。
 しかし、《帝国》と《国民国家》のあいだに区別をもうけることはできるでしょうか。《国民国家》における統治は、《帝国》による支配となんらちがいがないのだとしたら、どうでしょう。じっさい、在日朝鮮人や不法移民*13にとって、日本は《帝国》いがいの何ものでもありません。
 とすると、ナショナリストはどう行動すべきでしょうか。くりかえしますが、《帝国》の支配とたたかうのがナショナリストです。そうであるならば、ナショナリストは日本政府を打倒すべくたたかうべきでしょう。そうです。ナショナリストとは、アナーキストの別名です。ナショナリストアナーキストたるわれわれは、あらゆる主権・統治・政府に反対しなければなりません。




……なんか、まちがったこと、いっぱい書いちゃった気もするんだけど。まあ、いいっか。アップロードしちゃえー!

*1:17頁。引用は「増補版」じゃない、古い版のものです。以下、ぜんぶおなじ。

*2:「出版資本主義」や植民地出身エリートの「巡礼の旅」

*3:19頁。

*4:17頁。

*5:以下、引用文中の強調は引用者。

*6:242頁。

*7:247頁。

*8:257頁。

*9:もっとも、ロシア人を多数みかける街、たとえば小樽ではロシア人に対する人種主義(温泉施設での入浴拒否など)がみられます。

*10:199−200頁。

*11:108-110頁

*12:211頁。

*13:「未(非)登録移民」といったよびかたが政治的には正しい、という意見があるのは承知しています。しかし、私の考えでは、移民を管理するあらゆる「法」そのものが不当であり廃止されるべきであって、「不法」状態である移民にはなんら罪はありません。こうした理由であえて「不法移民」という語をつかっています。