せいむ・おーるど・ぶるーず

ぶるーす・ぎたーは かんたんなのですけど、
やっぱ むずかしいですわ。




ちょっと れんしゅう すれば、
すぐに いちおうは ひける ように なる ものだけど、
かっちょよく ひける ように なるまでは
まだまだで ございます。




そういう わけで、
「めいきょくを だいなしに する」シリーズ だい1だん、
という ことで、
ふれでぃ・きんぐ さん という ひとの
「せいむ・おーるど・ぶるーず」という きょくを
ひいて みました。
http://twaud.io/hPm




さいきん おもうのですが、
「ぶるーずを やろう」とか
おもって ひくのが
よくないのかも しれません。
ぶるーずを つくって きた みゅーじしゃんたちは、
とりたてて 「ぶるーずを やろう」なんて
おもって なかったのだろうし。
たぶん、ただ すきな ように じゆうに
うたって ぎたーを ひいてたんじゃ ないかなー。
あとから、「ぶるーず」という よびなが
ついて きたに すぎないのだろう からして。




それに、
わたしの 「ぶるーず」に ついての りかいは、
えりっく・くらぷとん とかの
ぶりてぃっしゅ ろっくの はくじん みゅーじしゃん たちが
「ぶるーず」として きりとって きた いめーじに
おおきく えいきょう されて いる わけで。
くらぷとんや ろーりんぐ・すとーんず とかが
カバーして 「しょうかい」する ことを とおして、
「おりじなる」である ふれでぃ・きんぐや ろばーと・じょんそん といった
こくじんの みゅーじしゃんが 「ひょうか」される
みたいな ずしきも、
かなしい。
はくじん ちゅうしんの おんがく さんぎょうが
ぶるーずを 「ぶるーず」として
わくづけ、ていぎし、りえきを すいあげて きた
という こと。




ところで、ふれでぃ・きんぐの おりじなるは これ。
http://www.youtube.com/watch?v=95YlwLT5ZT4




じょあん・しょう・ていらー さんに よる カバーも
すばらしいです。
http://www.youtube.com/watch?v=HvXbphE6IrA

「ことばが とどいて しまう」ことに ついて

じぶんの ことばが とどいて しまう ことは、
いつも よろこばしい わけでは なくて、
おそろしかったり、もうしわけ なかったりも。


まえに かいた とき あったかも だけど……。


ずいぶん まえに、
かんこくを たびした とき、
やどの ねんぱいの しゅじんに
「にほんごが ふじゆう なく、つうじて しまう」
という ことに、
ふくざつな きもちに なった。


「ことばが とどいて しまう」という ことが、
どういう ことなのか?
「ことばが とどく」ことを
あたかも しぜんで あたりまえの ように
かんがえて しまいがちだけど、
やはり それは 「しぜん」でも「あたりまえ」でも
ありえないのだと いう こと。


これも おなじ かんこく りょこうでの はなし。


シモノセキから フェリーで プサンに わたった。
プサンの みなとには、
あれ なんて いったかな、
ごはんを のりで まいたもの
あの ごまあぶらの かおりが こうばしいのを
あきなう じょせいが いた。


わたしは ちょうせんごが できないので、
かのじょが なにを いって いるのかは
よく わからなかったし、
かのじょも わたしが ちょうせんごが できない ことを
わかって いたのだろうけど、
かのじょは わたしに はなしつづける ことを
やめなかった。


「しょうばい」とか 「とりひき」とか、
もっと いえば 「コミュニケーション」というのは、
ああ こういう ものを こそ いうんだよなあ、と
ふかく なっとく させられたのを
いまでも よく おぼえて いる。


コミュニケーションを かのうに する
もっとも きほんてきな じょうけんとは、
「あらかじめ おたがいが
いわゆる コードというもの、
ぶんぽうの やくそくごととか ボキャブラリーとかを
きょうゆう して いる こと」
では ない。


コードが きょうゆう されて いなくても、
あいてに かたりかける こと、
そして その かたりかけられた あいてが
はんのうして しまった その しゅんかんに、
すでに コミュニケーションは はじまって いる。
その いみで、
コミュニケーションの
もっとも きほんてきな じょうけんとは、
かたる いしを もつ こと、そして かたりつづける ことに
ほかならないのだと おもう。


もっと いえば、
「ことばが とどかない」という ところから しか
コミュニケーションは はじまらないようにも おもう。
あいてに あらかじめ コードが
きょうゆう されて いる という ことを
「あたりまえ」の ぜんていに して しまった とき、
コミュニケーションが はらんで いる ぼうりょくせいが
みえなく なって しまう。


かたりてに とって、
「ことばが とどく」という ことが
「あたりまえ」「しぜん」に なって いるとき、
その かたりては、
その あいてに たいして
じぶんと おなじ コードを みに つける ことを
じかく しない ままに
ようきゅう して いたりも する。
あるいは、
「ことばが とどいて しまう」というのが、
じぶん(たち)が たにんに
その コードを がくしゅう する ことを
むりじい した けっかに すぎない ことも
しばしば あるように おもう。

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この きじは、
まえに かいた
「こくご はいしろん じょせつ」への ほそくという きじの
いちぶ やきなおしです。

「アンチ・ファシズム」が ファシズムに おちて ゆきませんように

 「OTAKU OF ANTIFA !」*1 たちあげの しゅうかいに さんか された エクストラレポートさんの レポートを よんで、かんじた ことを つらつら かいて みようと おもいます。


5月5日、「OTAKU OF ANTIFA !」胎動集会 出席レポ - エクストラレポート・ルーム


 まず、こうして、にほん しゃかいの がいこくじん はいじょ、じんしゅ さべつに はんたいして ゆこう という こころざしを もった ひとたちが あつまり、かつどうを はじめられて いる ことに、けいい(敬意)を ひょうしたいと おもいます。
 また、ここで しょうかい されて いる はつげんの なかには、わたしと しても、きょうかん(共感)を おぼえる ものも あった ことを、はじめに のべて おきます。

 従来のカウンターでは、「在特会や主権回復が何か始めた」→「そこへ行って対抗しよう」という発想に終始するものだったけど、「OTAKU OF ANTIFA !」においてはその前提を覆す。
 在特会への「喧嘩」よりも、排外主義に反対できる言葉や人の「場を構築」する事こそが課題となる。
「僕は本当はチキンなんですよ。やっぱり、在特会の暴力性とか、怖いんですよ」*2


 むろん、「ざいとくかい」などに ちょくせつ むきあって たいこう する アクションの いぎは ひてい できないとして、しかし そういう アクションが マッチョな ものを ひつようと して しまうとしたら、やはり それは もんだいが あるよなあと おもいます。
 ただ、この レポートに しょうかい されて いる はつげんには、しょうじき くびを かしげずには いられない ものも ありました。

 続けてたていしさんから、今までの反在特会の動きや言説への回答として「右でも左でもない“アンチファシスト”」としての表明がありました。
 平たく言えば、今までの反在特会の声に(賛否含めて)大きな存在感を持つ「反・日の丸」は反排外主義の声として蛇足だという事、そして、特に左派が遠ざける事の多かった「フリーチベット」「北朝鮮民主化」などへの人権・人道上の活動への支持と理解を持ちたいという意思を語られました。
イデオロギーではなく、シンプルに虐殺や人権弾圧は良くないと言い切れる運動にして行きたい」


 ひのまるに ついては とりあえず おくとして*3、ちょっと みすごせないのは、「特に左派が遠ざける事の多かった『フリーチベット』『北朝鮮民主化』などへの人権・人道上の活動への支持と理解を持ちたい」という くだりです。
 まず、よく わからないのは、なぜ ここで とうとつにも 「フリーチベット」「きたちょうせん みんしゅか」という はなしが でてくるのか、という ことです。ひのまるに はんたい する ことが はいがいしゅぎに はんたい する うえで よけいだと する いっぽうで、いったい どういう りくつで 「フリーチベット」「きたちょうせん みんしゅか」のための かつどうへの しじと りかいは よけいで ないと いえるのでしょうか? はいがいしゅぎに はんたいするなら、それこそ 「シンプルに」ただ はいがいしゅぎに はんたい すると いえば よいだけの はなしでは ないでしょうか?
 わたしが あやうさを かんじるのは、この たていしさんの(として しょうかい されて いる)はつげんに、とりわけ 「きたちょうせん」を いわば スケープゴートに する ことで、うんどうへの さんせい・きょうかんを ひろく あつめよう という いし(意思)が はたらいて いる ように おもえるからです。いらぬ しんぱいだと おっしゃるなら、それに こした ことは ないのですけれど。


 うえに いんよう した はつげんに、「みぎでも ひだりでも ない“アンチファシスト”」という ことばが あります。しかし、ちょうせん みんしゅしゅぎ じんみん きょうわこく(いか 「きょうわこく」と ひょうき します)や ちゅうごくの 「きょうい(脅威)」や 「じんけん もんだい」を こうじつ(口実)に して じんしゅてき・みんぞくてき へんけんを あおるのは、「みぎ」の ひとたちの いつもながらの やりくちです。
 いや、きょうわこくや ちゅうごくへの てきたい いしきと みくだした かんじょうは、いまや ひろく にほん こくみんに きょうゆう されて おり、 「さよく」や「リベラル」を なのる ひとの なかにも、そうした いしき・かんじょうを はずかしげも なく だだもれに してる ひとは すくなくないようです。その いみでは、「きたちょうせん」を ダシに して 「にほんじん」として まとまったり、「にほんじん」である ことに あんしんを おぼえたり する ことが、もはや この くにの こくみんの 「みぎでも ひだりでも ない」いっぱんてきな ナショナリズムの ありようだと いえるのかも しれません。
 いずれにせよ、このような 「みぎ」ないし それ じたいが さべつと へんけんに みちた よろん(世論)に おもねる こと。その ほかに、はいがいしゅぎに はんたい する という しゅしから いえば、ひつぜんせいが あるとは おもえない「フリーチベット」や 「きたちょうせん みんしゅか」を あえて もちだす ことの りゆうは、かんがえられない ように おもいます。ほかに なにか りゆうが あるのなら、おしえて いただきたい ものです。


 ねんの ために きほんてきな ことを 2つ してき して おきます。
 まず、「きたちょうせんの きょうい」などと いう ものは*4、こだいもうそう(誇大妄想)に すぎない という こと。にほん(および、アメリカ がっしゅうこく)は、あっとうてきな ぐんじりょくで きょうわこくを いかく(威嚇)して いる うえに、にほんは きょうわこくへの けいざい せいさいと、ざいにち ちょうせんじんの みんぞく だんたいへの だんあつを くりかえし おこなって おります。これらは いずれも 「きたちょうせんの きょうい」を こうじつに して おこなわれて いますが、それは こっけいな ほどに ねじれた にんしきで、きょうわこくに とっての にほんこそが 「きょうい」と いうべきでしょう。


 また、「イデオロギーではなく、シンプルに ぎゃくさつや じんけん だんあつは よくないと いいきれる うんどうに して ゆきたい」と いいますが、じぶん じしんの しゃかいてきな たちば・いちを ふりかえって みるなら、「イデオロギーではなく、シンプルに」それを いう ことなど ふかのうだ という こと。
 「きたちょうせんの みんしゅか」は、まず だれよりも きょうわこくの ひとびと、あるいは ちょうせんじんたちに よってこそ になわれるべき ことがらでしょう。たていしさんは さきの レポによると、そうした かつどうへの 「しじと りかいを もちたい」と はつげんされて いる ようです。でも、「しじと りかい」は こちらがわの いっぽうてきな おもわくで おこなわれるべき ものでは ないでしょう。かってな おもわくで おこなわれるなら、それは たんに とうじしゃたちの 「みんしゅか」への いしと のうりょくを かるんじた パターナリスティックな かいにゅう、よくて せいぜい「よけいな おせっかい」にしか ならないと おもいます。
 わたしたちの 「しじと りかい」が とうじしゃたちに とって かんげい される ものに なりうる ためには、まだまだ クリアしなければ ならない じょうけんが あるのでは ないでしょうか? その じょうけんとは、にほんの かこの しょくみんちしゅぎを はんせいし こくふくする こと、そして いまなお つづいて いる ざいにち ちょうせんじんへの はいじょと どうかしゅぎ(同化主義)に てっていてきに はんたい する こと、きょうわこくへの てきたい せいさく(敵対政策)を すぐさま やめ、ゆうこうてきで たいとう(対等)な かんけいを つくり あげる ために どりょくすることだと、わたしは かんがえて います。
 そうした じょうけんに むきあわずに、「きたちょうせんの みんしゅか」への 「しじと りかい」を かだいに ふくめる ことは、イデオロギーから じゆうな わけでは まったく なく、それ じたいが ひとつの せいじてきな せんたく(選択)に ほかならないでしょう。つまり、たていしさんは にほん(じん)に よる じんけん しんがいを とわない ことと セットで、「きたちょうせんの みんしゅか」への 「しじと りかい」を えらんで いる わけです。
 ようするに わたしの かんがえは、「きたちょうせんの みんしゅか」などと いう まえに、にほんを こそ みんしゅか し、まともに じんけんを そんちょう する くにに かえて ゆく ことに とりくんだら どうですか、という ものです。

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 さて、ここから さきで のべる ことは、いう ひつようが ない ことと いえば、まあ そうかも しれません。
 やはり、たていしさんの ものとして しょうかい されて いる はつげんの いくつかに ついて、ちょっと きに なった ことを かきますが、むしろ それは わたしの もんだいとして ときどき かんがえて いる ことがらであります。したがって、たていしさんの はつげんに たいする ちょくせつてきな ひはんを おこなう つもりでは なく、わたし じしんを ふりかえった ときに、おもいあたる ことを かいて いるのだと おもって ください。
 レポを よんでて きに なったのは、たていしさんの ことばの なかに、いわば 「いろつき(色つき)と みられたくない」という よっきゅうを かんじる かしょが いくつか あった ことです。さきに いんようした 「みぎでも ひだりでも ない……」という くだりも そうです。
 ほかに、たとえば、つぎの ような くだり。

「私なんてね、ギャルゲとコスプレ、お祭り騒ぎの好きなただのオタクです」
「もしこのOTAKU OF ANTIFA ! にイデオロギーアイデンティティがあるとすれば、それは右でも左でもない。ただのオタクだって事なんです」


 「オタク」というのは、ひとを みくだす ための、いうならば たにんを 「いろつきの」そんざいと みなす カテゴリー・レッテルとして つくりだされた ものだと おもうし、いまもって そうした つかわれかたを していると わたしは りかい してますけど、そこに 「ただの」と つける ことの ふくみに きょうみを ひかれました。むろん、「オタク」として いきて きた たていしさんの、わたしなどには そうぞうできない ふくみ というか ニュアンスが こめられて いるのでは ないかと おもわれますが、「みぎでも ひだりでも ない」という ことばと ともに、「ただの……」という ことばで じぶん じしんの むしょく とうめいさを しめそうと する ふるまいが、すこし きには なりました。

 これ[対外活動]を考える上でたていしさんの印象に残っているのは、これまた2009年4月11日の蕨でのカウンター参加者逮捕だったとの事。
 その事件へのネットでの反応は「どっちもどっち」「左右のデムパ合戦」という冷淡なものだった事も併せて。ネットでのその論調が肯定できるものかどうかとは別に、これを黙らせようとしたらやはり「在特会と同じ事をしない」というのが大事となって来る。
 つまり、「在特会の暴力性に暴力性で対抗しない」という基本を持つ事。


 「ざいとくかいの ぼうりょくせいに ぼうりょくせいで たいこう しない」というのは、わかります。けれど、よく わからないのは、その りゆうづけに なぜ ネットでの 「どっちも どっち」「さゆうの デムパ がっせん」といった ろんちょうを 「だまらせ」る ため という はなしが でて くるんだろうか、という ことです。
 「ぼうりょくせいに ぼうりょくせいで たいこう しない」の りゆうは、たんに「ぼうりょくが きらいだから」で じゅうぶんじゃ ないのでしょうか? あるいは、さいしょに いんようした たていしさんの ことばに ある ように、「ぼくは ほんとうは チキン」だから と いえば、たりるのでは ないでしょうか?
 わたしは といえば、たにんの ぼうりょくせいが こわいし、また そうした たにんへの おびえが じぶん じしんの ぼうりょくせい・こうげきせいに つながって いると かんじる ことが あって それも こわい。だから、「ぼうりょくせいに ぼうりょくせいで たいこう」する ことには なるべく しんちょうで ありたいなあと おもってますが、それは まわりから 「さゆうの デムパ がっせん」と みられたくない という よっきゅうとは ぜんぜん べつの はなしでは ないかと おもいます。


 もちろん、たにんが どのように じこ きてい(自己規定)するか という ことに ついて、わたしが とやかく いえる ことじゃないし、いう つもりも ありません。とくに 「いろつきとは みられたくない」というのは、わたし じしん そういう ところが あるし、「いろつき」と みられる ことが この しゃかいで せいかつを いとなむ うえで いろいろと しんどいのも たしかで。だから 「わたしは みぎでも ひだりでも ない、ただの ○○ですよ」と じぶんの むしょく とうめいさを アピールしようと ふるまって しまう ことを ひていは できません。
 ただ、こじん(個人)としてなら ともかく、そしき・しゅうだんとして、「われわれは いろつきでは ない」という じこ きていを つうじて まとまり、また それを そとに むかっても アピールするのは、ちょっと あやうい かんじが します。というのも、それは 「いろつき」を はいじょし(=はいがいしゅぎ)、また どうじに 「むしょく とうめい」である ことを しいようと する(=どうかしゅぎ/同化主義) 「せけん」に――というのは、とりもなおさず 「わたしたち じしんが つくりだして いる せけん」と いうべきですが――おもねり、うんどう じたいが その さべつに かたんする という ことに くずれ おちて ゆく ことに なりかねないと おもわれるからです。
 こうした けねんも あわせて かんがえた とき、やはり 「『ちょうせん みんしゅか』などへの じんけん・じんどうじょうの かつどうへの しじと りかいを もちたい」という はつげんは、わたしには とうてい こうてい できません。それは 「きたちょうせん」を スケープゴートに したてあげる ことで つくりだされて いる こんにちの にほん ナショナリズムに おもねって、じぶんたちへの しじと りかいを ひろげようと している ように みえて しまうのです。そうで なければ よいのですけど。

*1:オフィシャル・ブログは、こちら

*2:この「 」の なかは、たていしさんの はつげん。

*3:ひのまるに ついての わたしの かんがえは、ちょうど 1ねん ほど まえに「ひのまると うんこ」という きじで かいた とおりです。

*4:こういった ことばが、エクストラレポートさんの レポには でて くる わけでは ありませんが。

「にゅうかんの じんけん しんがいに はんたい する デモ」の ほうこく

 ひとつ まえの きじで おしらせ した しゅうかいと デモに ついて、ごくごく かんたんに ほうこくなど して みます。
 この もよおしの ささやかながら おてつだいを させて もらった ひとりとして、しゅうかい・デモに さんかされた かた、さんどうにん(賛同人)・さんどう だんたい ぼしゅうの よびかけに おうじて くれた かた、デモの じょうほうを ひろめて くれた かたたちに、こころから かんしゃ して います。



 デモに さきだって おこなわれた しゅうかいでは、ニホンだけでなく、さまざまな くにや ちいきの しゅっしんしゃからの おはなしを うかがう ことが できました。ビルマ、トルコからのクルドじん、ちゅうごく、コンゴなど。
 みな、ごじしんや その ゆうじんが、にゅうこく かんりきょく、にほん せいふから うけた はなはだしい じんけん しんがいへの いかりを うったえて いました。
 そうした ことばを ここで わたしの ことばで さいげん(再現)する ことなど とても できないと おもって いますので、「かれら・かのじょらの ことばが わたしの むねの うちで いま どういう ふうに ひびいて いるのか?」という かたちで、その ほんの いちぶを かきしるして おきます。
「50ねん、60ねんまえには ニホンじんも いまの わたしたちの ように くるしんで いたのでは ないか? ちかい しょうらい、ふたたび ニホンじんが がいこくの ひとびとの たすけを ひつようと する ことに なった とき、どれくらいの かずの ひとが あなたたちを たすけようと するか、そうぞうして ほしい。」
 デモの ようすと ともに、しゅうかい さんかしゃへの インタビューが まとめられた みじかい どうがが ユーチューブに あがってますので、ここに はりつけて おきます。


YouTube - 世界難民デー/World Refugee Day 2010 JAPAN


 しゅうかいでは ほかに、「『高校無償化(こうこう むしょうか)』からの朝鮮学校排除(ちょうせんがっこう はいじょ)に反対(はんたい)する連絡会(れんらく かい)」の ひとからの おはなしも ありました。
「この デモの しゅしからは すこし ずれますが……」と きょうしゅく されて ました。けれど、にほんでの 「がいこくじん」に たいする さべつ・じんけん しんがいを もんだいに する とき、ちょうせんじんに たいする、ニホンせいふ・ニホンしゃかいに おける、あるいは ニホンじんによる さべつ・はいがいしゅぎ(排外主義)・どうかしゅぎ(同化主義)は、つねに かんれんさせて かんがえなければ ならない かだいであると おもいます。ニホンの きんだいに おいて、とりわけ ちょうせんと ちょうせんじんに たいする みくだした イメージとの コントラストを つうじて、ニホンじんは 「ニホンじん」じしんの じがぞう(自画像)を えがいて きた めんは おおきかったのだし、それは いまなお そうでしょうから。その えんちょうせんじょうに、いみん・なんみんへの さべつ・じんけん しんがいが まかりとおって いる げんじつが ある。
 で、とうきょうでは らいしゅうの にちよう(6/27)に、こうこう むしょうかからの ちょうせんがっこう はいじょに はんたいする デモが あるそうです。
朝鮮学校差別を許さない!「高校無償化」即時適用を求める市民行動 - Arisanのノート


 さて、「にゅうかんの じんけん しんがいに はんたい する デモ」は、いみん・なんみんの ひとびとに よる、それぞれの げんごによる コールなども あって、ひじょうに もりあがりました。
 デモの しゃしんは つぎの リンクさきで みる ことが できます。
ムキンポさんの サイト
しゅさいしゃ SYIの ブログ
夢のリスト


 デモは いっしゅの おまつり さわぎの ような ものでも あって、わたしも さわいで 「まつり」として たのしんで きたのですけれども……。
 デモに さんかした なんみんの なかには、いまなお こくれん・だいがく(国連大学)まえで すわりこみを つづけて いる ひとたちも います。わたしに とっては 「まつり」が おわった きに なる ことは かんたんですが、かれら・かのじょらに とっては、しんどい げんじつが いまも まだ つづいて いる という こと。

入管の人権侵害に反対するデモ(漢字かなまじり表記バージョン)

※かながき バージョンは、こちらを クリックすると よめます。


 6月20日(日曜)に、東京で「入管の人権侵害に反対するデモ」があります。


かぞくをかえして!ともだちをかえして!入管の人権侵害に反対するデモ+入管への5つの要求にご賛同を!
English




2010年6月20日(日)
集合 代々木公園・ケヤキ並木(JR原宿駅徒歩5~10分)
  14:00 集会、アピール交換
  15:00 デモ出発(原宿・渋谷をめぐり、国連大学前を通ります)
主催 SYI (収容者友人有志一同)

★ 世界難民の日、日本入管・政府の外国人差別にNOをうったえましょう!
★ 入管行政のここが人権侵害だ! 抗議声明への賛同者・賛同団体を幅広く募集します。


《デモよびかけ》
 6月20日は世界難民デー。世界じゅうには、経済的または政治的な理由による難民が1000万人以上いると言われています。そのような難民の保護と援助について世界的な関心を高めるために、この日は制定されたそうです。
 ところで、難民とはどこか遠い国の問題ではありません。日本は移民・難民行政についてとても大きな問題をかかえています。ほとんどすべての難民申請は、たいした審査もなしに却下されます。さらには入国管理局が、難民申請中の人でさえおかまいなしに恣意的な収容を行います。ひとたび収容されれば、人権がまったく配慮されない環境のなかに、何ヶ月でも何年でも監禁され続けるでしょう。職業などを求めてやってくる難民以外の外国人も、同じようにあつかわれます。出身国での迫害から逃げてきた難民には、帰る場所などありません。また、たとえ難民の場合でなくとも、非人道的な収容環境それ自体が大きな問題です。収容のあいだに心身の健康を損ない、けがをし、ときには命を失うことすらあるのです。
 いつ解放されるとも知れず収容されている外国人の家族は、入管に対してこう訴えています。「かぞくをかえして!」と。わたしたちもこう叫びます。「ともだちをかえして!」と。日本人のみなさん、入国管理局でいったい何が行われているのかを正しく知ってください。こんな非人道的な入管行政を許し続けている日本人の責任について、この日によく考えてみてください。そしてわたしたちは、ともに声を挙げてくれる人を歓迎します。


(中略)


法務省および入国管理局への要求
1.すべての難民申請者に対する現行の審査基準および審査慣行を全面的に見直し、難民条約にもとづいて難民審査手続きを改善すること。
2.全国の入管収容施設におけるすべての病人や怪我人を、すぐに釈放するか適切な医療機関に診断させること。ただし、ここで言う「適切な医療機関」とは、入管専属の医師や、各入管施設が慣行として利用している外部の医療機関のことではなく、個々の被収容者ごとのかかりつけの医療機関のことである。
3.入管専属の診療医の人員数および診断の質を改善すること。そのためには、収容施設ごとの最大収容人数に見合う数の医師をつけること、また入管職員と専属医師の癒着を防ぐために、担当医師を定期的に(少なくとも年に一度)交代させることは、最低限とるべき措置である。
4.各入管施設のすべての職員は、名札をつけるなどして勤務中に名前を明らかにすること。
5.現在いわゆるオーバーステイの状態にあるすべての外国籍者に対し、日本で暮らすうえでの安定した法的資格を与えること。これは、日本政府がこれらの人々を、これまで労働力として暗黙のうちにこの社会に組み入れ、かつ課税の対象としてきたことに対してとるべき、最低限の責任である。


 日本の入国管理局の、移民・難民の人びとにたいする、あつかいのひどさは、たいへんにすさまじいものがあります。くわしいことはSYIのブログなどで、さまざまに報告されていますが、そのなかから、いくつかの事例をこちらにもあげておきます*1

  1. 「部屋が暑いから窓をあけてほしい」と頼んだら、そのことを理由のひとつとして、懲罰房(独房)に閉じこめられた。
  2. 不眠症のひとが睡眠薬をもっていたら、「規則違反」とされ、くすりを取りあげられた うえに、独房に閉じこめられた。
  3. 独房では、食事のときに箸(はし)すら出さない。
  4. 職員は収容者に自分のなまえを名のらず、あろうことか「先生」と呼ばせている。
  5. 病人・ケガ人にまともな医療を受けさせない。医者はろくに診察せず、でたらめに痛みどめや抗ストレス剤を出すばかり。
  6. 施設のなかで結核がはやるほどのひどい衛生環境と栄養状態。
  7. 糖尿病なのに、インシュリンの注射を打つことを許可しない。その結果、足が不自由になってしまった。しかも、収容施設には車イスが用意してあるのに、それを借りたいと 頼んでも拒否する。
  8. 収容者たちが、あまりのあつかいのひどさに抗議するために、命がけでハンストを始めると、おどしをかけて、これすらつぶそうとする。「おれたちとケンカすると収容が長びくぞ」とか、「仮釈放が取り消され、しかも大村収容所におくるぞ」とか*2
  9. コピー1枚とるのに、300円も払わせる。
  10. 茨城県の牛久入管では、今年になって、2月に25歳のブラジル人男性、4月に47歳の韓国人男性が、施設のなかで首をつって自殺している。
  11. 3月に成田空港で、強制送還中のガーナ人男性(45歳)が、入管職員の手によって殺されている。


 人を人とも思わないかのような入管職員たちの「ひどさ」に、まず驚くのですけれど、その一方で、このようにも思います。「もし、わたしが彼らの立場だったら、やはり彼らと同じようにふるまってしまうのではないだろうか?」と。いや、実際わたしは彼らと 「似た形」の暴力をふるってきたのかもしれない。
 おそらく、入管の職員の多くは、自分が仕事のなかで ひどいことをやっていると なかば自覚しているのではないかと思います(そのことときちんと向きあっているかどうかは別として)。彼らだって、自分と関わるあらゆる人にたいして、見下したり、おどしつけたり、いやがらせをしたりしているわけではないのでしょうから。彼らが人を人とも思わないかのようなふるまいをするのは、彼らの生活のなかの「特別な場面」においてだろうと推測します。
 その「特別な場面」とは、入管職員として拘束された勤務時間においてであり、職場である入管施設の建物なかにいるあいだであり、そこに閉じこめられた移民・難民の人びとに向きあうときです。その「特別な場面」を離れて、自分の家族や友人や職場の同僚と接するときには、彼らもいくぶんかの思いやりをもって親切に他人に接することもあるのでしょう。
 そう考えると、彼らが移民・難民の人たちにおこなっているふるまいのひどさをまったく自覚していないとは考えにくいです。


 わたし自身、身におぼえのあることですが、「人を管理する」ことを業務にふくむような仕事をしていると、目のまえにいる他人を「見下したい」「自分より下の『劣った存在』とみなしたい」という欲望がわいてくることがあるように思います。
 「相手にたいする自分のおこないが、けっしてほめられたものではない」という後ろめたさをどこかで感じているからこそ、相手を見下そうとするのでしょう。相手を自分より 「低い存在」だと思いこむことによって、その相手にたいする自分の後ろめたさに向きあうことから逃れようとする。
 こうして「管理」する相手との関係を「特別な」もの、「例外的な」ものとして切り離すことで、彼ら・彼女ら(あるいは、わたしたち)は、その関係を離れた自分の家族や友人に接するときに「善良な人」「親切ないい人」としての顔をみせることができ、また、そのあいだに矛盾を感じずにすむ。
 家族や友人にみせる顔が「ほんとうの自分の姿」であり、職場でみせてるのは、「ほんとうの自分」ではない、「自分より低い存在」に接するときに限っての「例外的」で「特別」な かりそめの姿なのだ、と思いこむ。


 また、自分のやっている仕事に なかば後ろめたさを感じることがありうるからこそ、自分の職場やそこに縛られている時間を「特別な場所」「特別な時間」として、「ふだんの」生活の場所と時間から切り離す必要性がうまれるのではないでしょうか。
 こうして、わたしたちは職場を離れた「ふだんの」人間関係では恥ずかしくてとても やれないおこないを、「仕事だから」と自分にいいわけしながら、やってしまえるのだと思います。


 さらに、「規則」というものも、働く人が後ろめたさと向きあわずにすむための道具として使われることがあります。
 規則・ルール というものは、圧倒的に不平等な関係のもとでは、権力をもった人間がすき勝手にやるためのものにしかなりません。つまり、人が人を管理したり支配したりするためにもちいられる規則は、管理する側の人間の都合で、いくらでも勝手に作ったり、すきなように解釈したり、存在しないはずの規則を「ある」と言いはったり、反対に存在するはずの規則を「なかったこと」にして無視したりできるものです。つまり、権力を独占する者は、規則・ルールをほしいままにあやつることができる。
 したがって、実際には、入管職員は 自分(たち)の自由な意思で、ねむれなくて困っている人から睡眠薬を取りあげたり、あつくるしい部屋の窓をわざと閉めきったりしているわけです。ところが、彼ら・彼女らは「規則だから (やむをえず)そうしたのだ」と、あたかも自分の意思の外側にある規則に自分の行動が決められているかのように言いはったり、自分自身そう思いこんだりするのです。


 これまで述べてきたわたしの考えをまとめると、こういうことです。つまり、入管での信じられないような人権侵害がまかりとおっている原因の一部は、物理的に入管の施設が外側の社会にたいし閉ざされていることにくわえて、そこで働く職員の心理的・認識的なレベルでも、外側の社会や自分自身の「ふだんの」生活から切り離されていることにあるのではないかということです。
 わたしには「彼らもまた被害者なのだ」などと言いたい気持ちはひとかけらもありませんが、ある意味で「彼らもまた閉じこめられている」あるいは 「彼らは自分で自分自身を閉じこめている」ということは言えるかもしれません。
 だからこそ、入管と、ひいては法務省、日本政府にたいして、「なにがおこなわれているのか、関心をもってみてるぞ」という、ひとりでも多くの存在をかたちにして示せたらいいなと思います。
 今回のデモが、その機会のひとつになればよいし、デモとあわせて賛同していただける個人と団体をつのっております。
賛同のおねがい
いまの時点での賛同者の一覧


 なお、デモには入管に家族を閉じこめられている(いた)、あるいは みずからが閉じこめられた経験のある、たくさんの移民・難民たちも参加される予定だと聞いております。デモのまえには集会をおこない、そうしたかたがたのお話を聞かせてもらう時間ももうけられるそうです。
 だれかを傷つけたという理由すらなしに、人を閉じこめ、家族や友人から引き離し、さらに命の危険にさらす。日本政府が入国管理と称して移民・難民の人たちにやっているのは、そういうことです。
 彼ら・彼女らのお話を聞き、いっしょに街を歩くことは、日本国の有権者としての責任、また、いわゆる「先進国」の発行するパスポートをもてる人間の責任と意識が――もちろん、わたしもふくめて――問われる機会になるのではないかと思っています。
 たとえば、もしオーバーステイが「せめられるべき」ことがらであり、彼らが収容所に閉じこめられ、ひどい環境におかれるのが「あたりまえ」だと考えるのだとしたら、それはいったいどうして「あたりまえ」といえるのか? もし、わたしたちが比較的に安全で豊かで自由な環境で暮らせることが「あたりまえ」で、彼ら・彼女らが それを求めて国境をこえようとすることが「あたりまえの権利でない」のだとしたら、それはなぜなのか?


 おなじ20日(日曜)には、大阪でも日本の難民制度を考える集会がもよおされるそうです。
世界難民の日  2010 関西集会

*1:それぞれの事例について、くわしくはリンク先をお読みください。1,2,3,5,6,8,9→http://pinkydra.exblog.jp/12745057/ 
4,→http://pinkydra.exblog.jp/12745057/
7,→http://pinkydra.exblog.jp/i3/
11→http://d.hatena.ne.jp/asita211/20100331/1270071584 および http://pinkydra.exblog.jp/12361344/>

*2:長崎県の大村収容所におくられたら、東京やその周辺に住んでいる家族が面会に行くことが、いちじるしく難しくなります。

にゅうかんの じんけん しんがいに はんたい する デモ

※この きじは、かながき バージョンと あわせて、かんじ・かなまじり ひょうきの ものも よういして あります。かんじ・かなまじりの ほうが よみやすい ひとは、こちらを クリックして ください。


 6がつ 20にち(にちよう)に、とうきょうで 「にゅうかん(入管/にゅうこく かんりきょく)の じんけん しんがいに はんたいする デモ」が あります。


かぞくをかえして!ともだちをかえして!入管の人権侵害に反対するデモ+入管への5つの要求にご賛同を!
English

2010ねん 6がつ 20にち(にちよう)

しゅうごう ばしょ:よよぎ こうえん・けやき なみき(ケヤキ並木)――はらじゅく えきから あるいて 5〜10ふん


 14:00〜 しゅうかい・アピールこうかん 
 15:00〜 デモ しゅっぱつ(はらじゅく・しぶやを めぐり、こくれん だいがく(国連大学)まえを とおります)


しゅさい:SYI(しゅうようしゃ ゆうじん ゆうし いちどう/収容者友人有志一同)

                                                                  • -

《デモよびかけ》
 6がつ 20にちは せかい なんみん デー(世界難民デー)。せかいじゅうには、けいざいてき または せいじてきな りゆうによる なんみんが 1000まんにん いじょう いると いわれて います。そのような なんみんの ほごと えんじょに ついて せかいてきな かんしんを たかめる ために、この ひは せいてい された そうです。
 ところで、なんみんとは どこか とおい くにの もんだいでは ありません。にほんは いみん・なんみん ぎょうせいに ついて とても おおきな もんだいを かかえて います。ほとんど すべての なんみん しんせい(難民申請)は、たいした しんさも なしに きゃっか されます。さらには にゅうこく かんりきょく(入国管理局)が、なんみん しんせいちゅうの ひとで さえ おかまいなしに しいてき(恣意的)な しゅうよう(収容)を おこないます。ひとたび しゅうよう されれば、じんけんが まったく はいりょ されない かんきょうの なかに、なんかげつでも なんねんでも かんきん され つづけるでしょう。しょくぎょう などを もとめて やってくる なんみん いがいの がいこくじんも、おなじように あつかわれます。しゅっしんこくでの はくがいから にげて きた なんみんには、かえる ばしょ など ありません。また、たとえ なんみんの ばあいで なくとも、ひじんどうてき(非人道的)な しゅうよう かんきょう それ じたいが おおきな もんだいです。しゅうようの あいだに しんしん(心身)の けんこうを そこない、けがをし、ときには いのちを うしなう こと すら あるのです。
 いつ かいほう されるとも しれず しゅうよう されて いる がいこくじんの かぞくは、にゅうかんに たいして こう うったえて います。「かぞくを かえして!」と。わたしたちも こう さけびます。「ともだちを かえして!」と。にほんじんの みなさん、にゅうこく かんりきょくで いったい なにが おこなわれて いるのかを ただしく しって ください。こんな ひじんどうてきな にゅうかん ぎょうせいを ゆるし つづけて いる にほんじんの せきにんに ついて、この ひに よく かんがえて みて ください。そして わたしたちは、ともに こえを あげて くれる ひとを かんげい します。


(しょうりゃく)

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ほうむしょう および にゅうこく かんりきょくへの ようきゅう

1.すべての なんみん しんせいしゃに たいする げんこう(現行)の しんさ きじゅん および しんさ かんこう(審査慣行)を ぜんめんてきに みなおし、なんみん じょうやくに もとづいて なんみん しんさ てつづきを かいぜん する こと。

2.ぜんこくの にゅうかん しゅうよう しせつに おける すべての びょうにんや けがにんを、すぐに しゃくほう するか てきせつな いりょう きかん(医療機関)に しんだん(診断)させる こと。ただし、ここで いう「てきせつな いりょう きかん」とは、にゅうかん せんぞく(入管専属)の いし(医師)や、かく(各)にゅうかん しせつが かんこう(慣行)として りようして いる がいぶの いりょう きかんの ことでは なく、ここ(個々)の ひしゅうようしゃ(被収容者)ごとの かかりつけの いりょうきかんの ことである。

3.にゅうかん せんぞくの しんりょうい(診療医)の じんいんすう(人員数) および しんだんの しつを かいぜん する こと。そのためには、しゅうよう しせつ ごとの さいだい しゅうよう にんずう(最大収容人数)に みあう かずの いし(医師)を つける こと、また にゅうかん しょくいんと せんぞく いし(専属医師)の ゆちゃくを ふせぐ ために、たんとう いし(担当医師)を ていきてきに(すくなくとも ねんに いちど)こうたい させる ことは、さいていげん とるべき そちである。

4.かく(各) にゅうかん しせつの すべての しょくいんは、なふだを つける など して きんむちゅうに なまえを あきらかに する こと。

5.げんざい いわゆる オーバーステイの じょうたいに ある すべての がいこくせきしゃに たいし、にほんで くらす うえでの あんてい した ほうてき しかくを あたえる こと。これは、にほん せいふが これらの ひとびとを、これまで ろうどうりょく として あんもくの うちに この しゃかいに くみいれ、かつ かぜい(課税)の たいしょうと して きた ことに たいして とるべき、さいていげんの せきにんである。

 にほんの にゅうこく かんりきょくの、いみん・なんみんの ひとびとに たいする、あつかいの ひどさは、たいへんに すさまじい ものが あります。くわしい ことは SYIの ブログなどで、さまざまに ほうこく されていますが、その なかから、いくつかの じれいを こちらにも あげて おきます*1

  1. 「へやが あついから まどを あけて ほしい」と たのんだら、その ことを りゆうの ひとつとして、ちょうばつぼう(懲罰房/どくぼう)に とじこめられた。
  2. ふみんしょうの ひとが すいみんやくを もって いたら、「きそく いはん」とされ、くすりを とりあげられた うえに、どくぼうに とじこめられた。
  3. どくぼうでは、しょくじの ときに はしすら ださない。
  4. しょくいんは しゅうようしゃに じぶんの なまえを なのらず、あろうことか「せんせい」と よばせている。
  5. びょうにん・けがにんに まともな いりょうを うけさせない。いしゃは ろくに しんさつせず、でたらめに いたみどめや こうストレスざい(抗ストレス剤)を だす ばかり。
  6. しせつの なかで けっかくが はやるほどの ひどい えいせい かんきょうと えいよう じょうたい。
  7. とうにょうびょうなのに、インシュリンの ちゅうしゃを うつ ことを きょか しない。その けっか、あしが ふじゆうに なって しまった。しかも、しゅうよう しせつには くるまイスが よういして あるのに、それを かりたいと たのんでも きょひ する。
  8. しゅうようしゃたちが あまりの あつかいの ひどさに こうぎ(抗議)する ために、いのちがけで ハンストを はじめると、おどしを かけて これすら つぶそうと する。「おれたちと けんかすると しゅうようが ながびくぞ」とか、「かりしゃくほうが とりけされ、しかも おおむら しゅうようじょに おくるぞ」とか*2
  9. コピー いちまい とるのに、300えんも はらわせる。
  10. いばらきけんの ウシク(牛久)にゅうかんでは、ことしに なって、2がつに 25さいの ブラジルじん だんせい、4がつに 47さいの かんこくじん だんせいが、しせつの なかで くびを つって じさつ している。
  11. 3がつに なりた くうこうで、きょうせい そうかんちゅうの ガーナじん だんせい(45さい)が、にゅうかん しょくいんの てに よって ころされて いる。


 ひとを ひととも おもわないかの ような にゅうかん しょくいんたちの 「ひどさ」に まず おどろくのですけれど、その いっぽうで このようにも おもいます。「もし、わたしが かれらの たちばだったら、やはり かれらと おなじ ように ふるまって しまうのでは ないだろうか?」と。いや、じっさい わたしは かれらと 「にた かたち」の ぼうりょくを ふるって きたのかも しれない。
 おそらく、にゅうかんの しょくいんの おおくは、じぶんが しごとの なかで ひどい ことを やって いると なかば じかく して いるのでは ないかと おもいます(その ことと きちんと むきあって いるか どうかは べつと して)。かれらだって、じぶんと かかわる あらゆる ひとに たいして、みくだしたり、おどしつけたり、いやがらせを したり している わけでは ないのでしょうから。かれらが ひとを ひととも おもわないかの ような ふるまいを するのは、かれらの せいかつの なかの 「とくべつな ばめん」に おいてだろうと すいそく します。
 その 「とくべつな ばめん」とは、にゅうかん しょくいん として こうそく された きんむ じかんに おいてであり、しょくばである にゅうかん しせつの たてものの なかに いる あいだであり、そこに とじこめられた いみん・なんみんの ひとびとに むきあう ときです。その 「とくべつな ばめん」を はなれれて、じぶんの かぞくや ゆうじんや しょくばの どうりょうと せっする ときには、かれらも いくぶんかの おもいやりを もって しんせつに たにんに せっする ことも あるのでしょう。
 そう かんがえると、かれらが いみん・なんみんの ひとたちに おこなって いる ふるまいの ひどさを まったく じかく して いないとは かんがえにくいです。


 わたし じしん みに おぼえの ある ことですが、「ひとを かんりする」ことを ぎょうむに ふくむ ような しごとを して いると、めの まえに いる たにんを 「みくだしたい」「じぶんより したの 『おとった そんざい』と みなしたい」という よくぼうが わいて くる ことが ある ように おもいます。
 「あいてに たいする じぶんの おこないが けっして ほめられた ものでは ない」という うしろめたさを どこかで かんじて いるからこそ、あいてを みくだそうと するのでしょう。あいてを じぶんより 「ひくい そんざい」だと おもいこむ ことに よって、その あいてに たいする じぶんの うしろめたさに むきあう ことから のがれようと する。
 こうして 「かんり」する あいてとの かんけいを 「とくべつな」もの、「れいがいてきな」ものとして きりはなす ことで、かれら・かのじょら(あるいは わたしたち)は、その かんけいを はなれた じぶんの かぞくや ゆうじんに せっする ときに 「ぜんりょうな ひと」「しんせつな いい ひと」としての かおを みせる ことが でき、また その あいだに むじゅんを かんじずに すむ。
 かぞくや ゆうじんに みせる かおが 「ほんとうの じぶんの すがた」であり、しょくばで みせてるのは、「ほんとうの じぶん」では ない、「じぶんより ひくい そんざい」に せっする ときに かぎっての 「れいがいてき」で 「とくべつ」な かりそめの すがたなのだ、と おもいこむ。


 また、じぶんの やって いる しごとに なかば うしろめたさを かんじる ことが ありうるからこそ、じぶんの しょくばや そこに しばられて いる じかんを 「とくべつな ばしょ」「とくべつな じかん」として、「ふだんの」 せいかつの ばしょと じかんから きりはなす ひつようせいが うまれるのでは ないでしょうか。
 こうして わたしたちは しょくばを はなれた 「ふだんの」にんげん かんけいでは はずかしくて とても やれない おこないを、「しごとだから」と じぶんに いいわけ しながら やって しまえるのだと おもいます。


 さらに、「きそく」という ものも、はたらく ひとが うしろめたさと むきあわずに すむ ための どうぐ として つかわれる ことが あります。
 きそく・ルール という ものは、あっとうてきに ふびょうどうな かんけいの もとでは、けんりょくを もった にんげんが すき かってに やる ための ものにしか なりません。つまり、ひとが ひとを かんりしたり しはいしたり する ために もちいられる きそくは、かんりする がわの にんげんの つごうで、いくらでも かってに つくったり、すきな ように かいしゃくしたり、そんざい しない はずの きそくを 「ある」と いいはったり、はんたいに そんざい する はずの きそくを 「なかった こと」に して ムシしたり できる ものです。つまり、けんりょくを どくせんする ものは、きそく・ルールを ほしいままに あやつる ことが できる。
 したがって、じっさいには、にゅうかん しょくいんは じぶん(たち)の じゆうな いしで、ねむれなくて こまって いる ひとから すいみんやくを とりあげたり、あつくるしい へやの まどを わざと しめきったり して いる わけです。ところが、かれら・かのじょらは 「きそくだから (やむを えず) そうしたのだ」と、あたかも じぶんの いしの そとがわに ある きそくに じぶんの こうどうが きめられて いるかの ように いいはったり、じぶん じしん そう おもいこんだり するのです。


 これまで のべて きた わたしの かんがえを まとめると、こういう ことです。つまり、にゅうかんでの しんじられない ような じんけん しんがいが まかり とおって いる げんいんの いちぶは、ぶつりてきに にゅうかんの しせつが そとがわの しゃかいに たいし とざされて いる ことに くわえて、そこで はたらく しょくいんの しんりてき・にんしきてきな レベルでも、そとがわの しゃかいや じぶん じしんの 「ふだんの」せいかつから きりはなされて いる ことに あるのでは ないか という ことです。
 わたしには 「かれらも また ひがいしゃなのだ」などと いいたい きもちは ひとかけらも ありませんが、ある いみで 「かれらも また とじこめられて いる」あるいは 「かれらは じぶんで じぶん じしんを とじこめて いる」という ことは いえるかも しれません。
 だからこそ、にゅうかんと、ひいては ほうむしょう、にほん せいふに たいして、「なにが おこなわれて いるのか、かんしんを もって みてるぞ」という ひとりでも おおくの そんざいを かたちに して しめせたら いいなと おもいます。
 こんかいの デモが その きかいの ひとつに なれば よいし、デモと あわせて さんどう(賛同)して いただける こじんと だんたいを つのって おります。
さんどう(賛同)の おねがい
いまの じてんでの さんどうしゃ(賛同者)の いちらん


 なお、デモには にゅうかんに かぞくを とじこめられて いる(いた)、あるいは みずからが とじこめられた けいけんの ある、たくさんの いみん・なんみんたちも さんかされる よていだと きいて おります。デモの まえには しゅうかいを おこない、そうした かたがたの おはなしを きかせて もらう じかんも もうけられるそうです。
 だれかを きずつけた という りゆうすら なしに、ひとを とじこめ、かぞくや ゆうじんから ひきはなし、さらに いのちの きけんに さらす。にほん せいふが にゅうこく かんりと しょうして いみん・なんみんの ひとたちに やって いるのは そういう ことです。
 かれら・かのじょらの おはなしを きき、いっしょに まちを あるく ことは、にほんこくの ゆうけんしゃとしての せきにん、また いわゆる 「せんしんこく」の はっこうする パスポートを もてる にんげんの せきにんと いしきが――もちろん わたしも ふくめて――とわれる きかいに なるのでは ないかと おもって います。
 たとえば、もし オーバーステイが 「せめられるべき」ことがらで あり、かれらが しゅうようじょに とじこめられ、ひどい かんきょうに おかれるのが 「あたりまえ」だと かんがえるのだと したら、それは いったい どうして 「あたりまえ」と いえるのか? もし わたしたちが ひかくてきに あんぜんで ゆたかで じゆうな かんきょうで くらせる ことが 「あたりまえ」で、かれら・かのじょらが それを もとめて こっきょうを こえようと する ことが 「あたりまえの けんりで ない」のだと したら、それは なぜなのか?


 おなじ 20にち(にちよう)には、おおさか(大阪)でも にほんの なんみん せいどを かんがえる しゅうかいが もよおされるそうです。
せかい なんみんの ひ  2010 かんさい しゅうかい




*1:それぞれの じれいに ついて、くわしくは リンクさきを およみください。1,2,3,5,6,8,9→http://pinkydra.exblog.jp/12745057/ 
4,→http://pinkydra.exblog.jp/12745057/
7,→http://pinkydra.exblog.jp/i3/
11→http://d.hatena.ne.jp/asita211/20100331/1270071584 および http://pinkydra.exblog.jp/12361344/>

*2:ながさきけんの おおむら しゅうようじょに おくられたら、とうきょうや その しゅうへんに すんで いる かぞくが めんかいに いく ことが いちじるしく むずかしく なります。

ぎじゅつと かんせい

 がっきを やってて よかったなと おもう ことの ひとつは、おとに たいする じぶんの うけとりかた かんじかたが へんかして いくのを はっきりと けいけんできる ことかなあと おもう。
 すきな きょくや えんそうを がっきを つかって まねて みる。スピーカーから きこえる おとを ひとつ ひとつ ひろって、ギターや ベースで さいげんしようと して みる。まあ、もちろん おもいどおりに なんか ならない。じぶんの からだも たにんも おもいどおりに ならない ものだ。それで フラストレーションが たまる ことも ある。
 でも、そうやって みみを すませて てを うごかして いる うちに、なんじゅっかいと くりかえし きいてる おなじ CDの おんげんが、だんだんと すこしずつ ちがった ものに きこえて くる。ぶつりてきに なって いる おとは おんなじなのに、じぶん じしんの みみが ちがった おとの うけとりかたを する ように なって いくのが、はっきりと わかる。きこえて いなかった おとが きこえる ように なったり、あるいは アンサンブルの バランスが いままでとは ずれて、あたらしい かたちで ぜんたいの イメージが くみたてられて いくのを かんじたり。




 もっとも、わざわざ がっきなんか やらなくても、くりかえし なんじゅっかいも なんびゃっかいも おなじ きょくを きいて いる うちに、かんじかた きこえかたが へんかして いく という ことは あるのだろう。
 でも、おとに たいして ただ うけみに なるのでは なく、てを うごかして、じぶんの ほうから おとに はたらき かけようと する ことで、じぶん じしんの かんじかたを うまれかわらせて いく。いわば、「ぎじゅつが かんせい(感性)を かえて ゆく」こと。そういう ことが 「たいせつだ」と せっきょうする つもりは ないけれど、そういうのが わたしは すきだ。




 ぶんしょうを かくのも、わたしに とって にた ところが ある。
 すくなくとも この ブログに かいて きた ぶんしょうに ついて、わたしは なによりも まず じぶんの ために かいて きた。たにんに むかって なにかを うったえたいとか、しゅちょう したいとか、せっとく したいとか、そういう よくぼうが じぶんに ないと いえば うそに なるけども、そうゆうのは いちばん だいじな ことでは ない。
 たしかに、ぶんしょうを かく ことは、たにんと かかわる ことだし、たにんの そんざい なしには、わたしは ひとことだって ことばを かく ことは できないかも しれない。
 けれども、じぶんが ひとりぼっちだ という じかく なしに なにごとかを かく ことは、わたしには むずかしいし、やっても いみが ない ことだとも おもう。




 ことばを ひとりで いじくり まわす。ことばは コントロールできない ものだけど、コントロールしようと そうさする。そうやってる うちに、ものの みえかた、せかいに たいする かいしゃく、あるいは かこに けいけん した じじつに たいする じぶん じしんの うけとりかたが、へんかして いく。
 そうやって ことばを いじくり こねくり まわす という ことが、うまく できなく なって いる ときは、しんどい。たとえば、じぶんの けいけんした ひとつの じじつが、おんなじ ひとつの イメージで なんども なんども あたまの なかで リピートし つづける じょうたいは、ほんにんに とって、ある しゅの 「じごく」だと おもう。
 さらに わるい ことに、そういった 「リピート」には、なにか クセに なる せいしつ というか、ちゅうどくせいの ような ものが あって、いちど はまると なかなか ぬけだせなく なったりも する。ふよういに ぶんしょうを かく ことで、うっかり、そういった 「リピート」される イメージを ことばに よって ますます こていさせて しまう ことも ある。
 その いみで、へたくそな かたりかたは、じぶん じしんを くるしめて しまうのだと おもう*1。「ことばを みがく」という ひょうげんは きらいだけど、ことばに かんする ある しゅの 「ぎじゅつ」は、――おおげさな いいかたを すれば――「いきるために ひつよう」なのかしらねえ という きも したりして……。

*1:もちろん、かたって いる ほんにんだけで かたりが せいりつする わけは ないのだから、「へたくそな かたりかた」の せきにんが その ひと ひとりに おわされて しまっては いけない、という ことは だいぜんていとして。